ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

人はなぜ学ばなければならないのか 齋藤 孝(著)

タイトルに考えさせられた。人に質問された時にその回答考えたことはあるが、自分自身に問いかけたことはなかった。自分では何故勉強するのかがわかっていない。だが勉強がしたい。いろいろなことが知りたい。

本書には、その意欲こそが人間たらしめるもの、その学びこそが人間を構成するもの、と記されている。

本書の最後の一行にもこうある。

P270.
「学ぶ存在=人間」なのですから。

本書の前半は著者である齋藤孝さんの考えや経験をもとに書かれているが、後半は主に、孔子の「論語」からの引用やその説明、ソクラテスの引用やその説明が主になる。270ページという少し厚めの内容にはなるが、齋藤孝孔子ソクラテスの3本柱が絶妙な割り当てで記述されており、読むのにしんどさはなく、2時間半ほどで連続して読めた。

本書を読めば、「学ぶこと」、「本を読むこと」の重要さも理解できるが、それ以上に孔子の論語ソクラテスの弁明が読みたくなる。「本を読むことで学ぶ」という重要さの説明もさることながら、本書を読むことで別の書籍を読み、学びたくなるというすごい本かと思う。

齋藤孝さんの「筋を通せば道は開ける」を読むことで、原書の「フランクリン自伝」を読みたくなった。齋藤孝さんは本当に文章の書き方や話の流れ、誘導が上手い。本書でいうところの師を見つけ、師の紹介する本を読むとするならば、まずは齋藤孝さんを師としたい。

人はなぜ学ばなければならないのか

人はなぜ学ばなければならないのか


本書の題名は「人はなぜ学ばなければならないのか」という問いかけのようにも感じるが、内容は「なぜ学ばなければならないのか」ということの解説になる。

その解説も、「◯◯であるから学ばなければならない」ではなく、あくまでも齋藤孝さんの考えの記載があり、孔子ソクラテスの引用がありと、押し付けがましい内容ではないと感じる。また、それには人間論的な内容も含まれるが、それぞれに説明があるためわかりやすい。


まず、学ぶことの重要性を説いているというのは以下の引用に込められているかと思う。

P44.
「学びの基本は自分の固定概念を崩し続けること」
これを強く主張したのが、小学校の先生であり、昭和の代表的な教育者と言われる斎藤喜博さんです。

私はよく「普通」という言葉のいい加減さを人と話す。「学ぶ」ことを拒否している人間は「普通」という言葉をよく使うと感じている。私も「普通」と言う言葉を便宜上使うこともあるが、気をつけて使っている。「普通」という言葉をよく使う人は「普通」とは共通認識と言う意味で使っているようだが、「普通」とは共通認識ではなく、自分の中で「普通」なのでありそれは共通認識ではない。自分が育つ中でそれが当たり前であっただけで、その自分が育った環境で当たり前は変わるように「普通」も変わる。アメリカ人が英語を使うのが「普通」のように、日本人は日本語を使うのが「普通」なのだ。「普通」は「普通」、人によって「普通」に変わるのだ。
本を読み、人の話を聞けばそれに気づくことはできるのかとおもうが、そういったことを拒否している人間は自分を中心に考えることしかできず、「普通」は共通認識だと見誤る。この見誤りに気づくために「学ぶ」必要がある。

これらについて長々と説明していたのだが、「学びの基本は自分の固定概念を崩し続けること」という短文で、私が説明していたことの大半が説明できてしまっている。「学ぶ」ことは感動も生む。

その「普通」が出来る過程もうまく説明されている。

P46.
人間は生まれた瞬間からコミュニケーションをしなければ生きていけません。だから、赤ちゃんはコミュニケーションの仕方をどんどん学びます。
「こう泣くと、おっぱいがもらえる」
「にっこり笑ったら、なにかいいものがもらえる」
「こうすると褒められて、こういう食べ方をするとしかられる」
一つ一つステップを踏み、その家の風習をはじめとするあらゆるものを学んでいく。人間は学力が備わっていなければ生きていけない存在なのです。

くやしい。こんなにスマートに「普通」になる過程が説明できることが羨ましい。人を羨ましく感じるから、自分もそこに近づきたいと思い勉強するのかもしれない。
このように、人は成長する過程で「普通」を形成していき、その形成した「普通」で物事を判断してしまう。だからこそ、その「普通」が「普通」で無いことを知るために「学ぶ」のだ。

ここまでの「普通」とは少々異なるかもしれないが、私は食に対して親から相当数騙されて成長してきた。ドライカレーは「カレーとご飯を混ぜて冷蔵庫で一晩寝かせたもの」、ビーフシチューは「カレー多め」、シチューは「白いカレー」。裕福な過程ではなかったためこのように騙されて育ったのだが、そうやって育ったためにそれが私の「普通」であった。その「普通」も24歳ころまで「普通」であり続けていた。
24歳頃に、当時勤めていた会社の社長にびっくりドンキーについれていってもらった。そこで何を食べるか悩んでいると、「ビーフシチューハンバーグ(多分こんな商品名)にしたら?」と言われたのだが、私が「カレーは今は食べたくないです」と答えると、社長はびっくりしていた。「ビーフシチューとカレーは違う」と社長は言うのだが、私は15年以上はそう言われて育ってきているので、その意味がわからなかった。「普通」とはこわい。いやこれは「固定概念」か。


このような「普通」や「固定概念」を打ち破るために必要なのは、人の話を聞き、本を読むということを以下の2つ引用で語られている。

P110.
孔子の教えでは、学ぶにはあらためて本を読んだり、人から話を聞いたりする必要が生じます。この点について、孔子は『論語』の中で、次のようなことを言っています。
「私は一晩中眠らずに考え続けたことがあった。それはほとんど無駄だった。やはり、書を読んだり、師の話を聞いたりする方がいい。」

自分の知識の中からいくら考えたところで解決できないことはあるが、本を読み人の知識を知ることで、自分の知識を増やし、その知識から解決することができる。
「考える」とは自分の知識を応用することであり、その知識の絶対量がすくなければ何も考えることができない。考えるためには「学ぶ」必要がある。

P168.
本を読むことは、かつて生きた優れた人の言葉を聞くということ。読むとは、基本的に人の話を聞くことです。
学ぶことの基本行為も「聞くこと」です。

人の話を文章にしたものが書であり、「本を読むくらいなら、人と話している方が役に立つ」というのは誤りである。たしかに会話には会話の良さがあるが、書は著者が伝えるために書かれているのである。本を読む、それは本との会話である。「人と話している方が」と言う人は、自分が話すことが好きなだけなのかもしれない。


これに似た内容を私は話すことがある。「本を読まない」という人に話す。
本とは著者が経験してきたことを伝えてくれているもので、著者が人生をかけて経験したことや、失敗したことを本としてまとめてくれている。君が今までにした失敗も、過去にすでに経験した人がおり、それを 書として残してくれている。それを先に読んでおけば、失敗を避けれたかもしれないし、失敗をより深く考えられるかもしれない。著者が人生をかけて経験したことを数百円で1時間程度で学べるというのは、こんな素晴らしいことはない。


ただし、本を多読すればいいというものでもなく、読んだ本からそれを自分の身に付ければならない。九九を暗記したところで意味は無いのと同じで、それを計算に使う能力を身につけなければならない。書籍も同じで、著者の経験を知り、それを自分で考え解釈し身につけなければならない。そしてそれを未来に書き残してほしい。


本書からの引用ではないが、最後に以下も本書のつながりとして記しておきたい。

地球少女アルジュナ 第六章 はじめの一人.
本などに何の意味も無い
万巻の書を積んだところで1本の雑草より、意味の無いことだ

人はなぜ学ばなければならないのか

人はなぜ学ばなければならないのか


論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)


ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)