ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

読書をしないからコミュ障なんじゃね

本日も新しい言葉を知った。「コミュ障」。前に書いた「バカはバカであるという事」の内容にこれも当てはまるが、単純には「人と話がしづらい障害」と言うことらしい。やはり馬鹿は馬鹿だな。

私は「読書をしない人は思い遣りがない」と思っている。私の身の回りの仕事が出来る人はもれなく私以上の読書をしているし、話が面白いと思う人も漏れなく読書をしている。気遣いや思い遣りがあると思う人も読書をしているし、とにかく私の周りの尊敬できる人は漏れ無く読書をしている。

逆に頭が悪いと思う人は漏れ無く読書をしていない。差別をするわけではないが、読書をしない人とはあまり関わりたくないと思えるほどに顕著な差がある。


この理由は単純で、「読書をするということは人の考えを知ろうとする事」だからだ。人の考えを知ろうとすることは思いやりや気遣いに直接つながることになる。

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)


本に書かれた内容は著者の主張である。書籍の内容には事実を書くように努力しているかと思うが、その「事実」は「著者目線」の「事実」だ。例えば「仏教」について書かれた書籍を読むとしても、著者の違う3冊の書籍を読めば書かれている内容はそれぞれ異なる。これは書かれている内容の「視点」が異なることでもあれば「考え方」が異なることもある。著者が違うということは3つの考え方があるということだ。

この読書に対する考え方があなたと私では違うように、書籍には著者の主張が書かれていることにほかならない。


本を読むということはその「他人(著者)」の考え方を知るということだ。読書をしようと思うということは「他人の考えを知ろうとする」ということだ。上司から一方的に話を聞かされるのではなく、自らの意志で能動的に他人の話を聞こうとすることだ。

他人の話を聞くことは他人の考えを知ることになり、自分とは違う考えを知ることになる。自分の考えしか知らなければそれを人に押し付けてしまうことになる。要するには自己中心的な人間だ。例え自分の考えがあったとしても、「こう考える人もいる」と理解していれば他人の考え方を理解できるようになり、その人の考えも許容することが出来るようになる。


書籍には著者の経験が書かれている。著者が生涯をかけて経験し、発見したことを書籍にまとめてくださっているのだ。50年かけて得た気づきをたった1000円の書籍にまとめてくれている。たった1時間で学べる内容にまとめてくれている。こんなありがたいことはない。

だからこそ本を読むことで様々な経験を仮想的に行っているのだ。その経験は実生活や仕事にも活かすことが出来る。いろいろな知識があればその知識を人に分け与えることも出来る。


だからこそ読書をする人は頭がよく、仕事も出来、話が面白く、思いやりがあり気遣いが出来る。

この読書も漫画やフィクションを趣味に読み続けるというものではない。それらの読書も何かの経験につながるかもしれないが、SFが好きな人でも歴史書を読む。ビジネス書が好きな人でも生物学の書籍を読む。こうすることでいろいろな発見が出来、趣味の読書にも役立つ知識がつく。また、偏った書籍を読むのであればこの私の主張とは関連しないものになる。多種多様な内容を知ろうとするからこそ読書なのである。


先に書いた「コミュ障」というのも、人と話しづらいというのには「人の考えがわからない」、「私の話を聞いてもらえない」、「話す内容がない」など、読書をすればそれぞれ解決できるようなものになる。


さぁ、パソコンを捨て、書を開こう。

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

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読書について 他二篇 (岩波文庫)

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