ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

本を読まない人間には近づくな

本を読まない人間とは係るな。本を読まない女には近づくな。本を読まないならしゃべるな。これは私からの提案である。

本を読まないということは他人の意見を知ろうとしないということだとは「[読書をしないからコミュ障なんじゃね」に書いた。

本を読まないということは何も自分だけの問題ではない。あなたが本を読まないなら周りを巻き込んでいる。あなたは本を読まないような自己中であるからゆえにそれに気づいていないのだ。是非とも人と関わらないでほしい。もちろん私にも関わらないでほしい。この記事も読まなくて良い。

人はなぜ学ばなければならないのか

人はなぜ学ばなければならないのか


これは大げさな話ではない。今現在も私は本を読まない馬鹿に巻き込まれている。ここでわかったのが先に書いた「本を読まない女に近づくな」と言うことだ。関わらないだけでは不足だ。近づくだけで何かに巻き込まれる。

これは私が男だから言えることであり、女の立場からしたら逆のことを言えるのかもしれない。本を読まない馬鹿な女からしたら「本を読む男には近づくな」となるかもしれない。それは個人の自由だ。


私は昔から「馬鹿は頭の良い人間に利用されて生きていけ」と書いてきた。これは仕方がないことだ。バカがいくら騒いだところで何の意味もない。確かに多数派のバカにより法律はいくらでも改正されてきた。だが、それは頭の良い政治家が自分の支持率を上げるためにバカを利用しているだけだ。そうやってバカは利用されているのだ。だが馬鹿はそれに気が付かず「私の意見、考えが正しかった」と勝ち誇る。それに味をしめて繰り返し騒ぎまくる。そしてまた利用される。


何も馬鹿なことは悪いことではない。十人十色で知能が違うことは仕方がないことだ。だが知能が低いことと本を読まないことは関連しない。

日本の識字率には嘘が紛れているが、私が馬鹿と言っているのは識字に問題がある人間のことではない。簡単に言えば「勉強が出来るのに勉強をしない人」だ。本を読むことが出来るのに本を読まない人たちが馬鹿なのだ。


繰り返すが、馬鹿なことは悪ではない。勉強しようとしないから、本を読もうとしないから馬鹿なのだ。

先にも書いたが「本を読む」ということは「他人の意見を、考えを知る」ということだ。本を読み、それを自分から「知ろう」とすることだ。本を読まない人間はそれをしない。実際の人間関係でも自分の意見だけを押し付け、自分を中心と考え、他人の意見など知ろうとも考えようとも、そもそもあるとも思おうとしない人々だ。

本を読まない人からすれば「自分の世界」が全てなのだ。周りの人間もその「自分の世界」の住人だと思っている。だからこそ自分の思い通りになると考え、自分の思い通りにならなければ切り捨てる。切り捨て方も自分の世界の方法だ。悪評、嘘、噂話を流し始める。こうやって周りの人をドンドンと侵食していこうとする。

特にこれらの陰湿なやり口は女に多い。私も実際に何度か被害にあったことがある。


では本を読まない女は何をするか。テレビを見るだけだ。テレビを見て、そのテレビを見た人間と集まり会話する。バカが集まり馬鹿な会話をする。テレビでは一方的に情報が放送されている。動画を使い具体的に説明されているので考える必要はない。鵜呑みにすればいいだけだ。

だが書籍では全ての情報は「文字」でしかない。自分でその文字を読み、文字から文章を読み、文章から内容を考え想像する。そうして想像力から内容が構築される。読書をするというのは「想像する」ということでもある。読書をしない人はこれが出来ない。テレビに写った内容をそのまま鵜呑みにするしか無いのだ。

これは同じコメディの分野でも同じだ。テレビのコメディ(バラエティ)はそれを見て笑えばいいだけだ。だが文章のコメディはその文章を読み内容を想像してそれを笑う。これは手間ではない。十人十色で想像した結果が違うからこそ面白いのだ。「好物」と書かれていても、それは個人個人で想像するものが違うだろう。


だからこそ本を読まない人は他人の行動を「その行動」でしか見ない。その行動を行った理由を考えようともしない。注意されたらそれが即「怒られた」と結びつくのだ。そうして人を非難の対象として結びつけていく。


では本を読む人間が本を読まない人間どどう付き合えばいいか。「係わらない、近づかない」と言う付き合い方しか無い。



テレビについては次の記事にしよう。