ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

書くこと

世間にはどうも書くことを苦手とする人が多いようだ。私もこのブログからわかるように、文章を書くことが決して得意でもうまいわけでもない。

学生の頃は読書感想文も書くことが出来ず、その本を読んでもいない母親に感想を聞いて書いていたほどだ。

その頃に比べるとブログを書くことが出来るようになった現在は文章を書くことが多少は出来るようになったのかと思う。

だが今となっては、「話せる人に書けない人は居ない」と思えるようになった。確かに学生の当時は人付き合いが悪く人との会話はあまりなかった。

書くこと、それは闘うこと

書くこと、それは闘うこと


文章を書くことはつい最近まで苦手であったが、本を読み始めることでそれは変わった。

今では人の話を聞ければ本を読め、話すことが出来れば文章を書けると思っている。

よって、人の話を聞ければ文章を書くことが出来、それが出来ないということは人の話を聞けていないのかと思っている。


話すことと書くことはどう違うのだろうか。「話せるけど書けない」と思っている人はこれについて考えてほしい。

書くこととは基本的に話すことを文字に起こせば良いだけだ。それで一応は文章になる。何も特別なことはない。


話すことと書くことの決定的に違うことは、書くことは特定の相手を対象にしていないということだ。話すのであれば聞き手が手近なところにいるが、書く場合には読み手が誰で、どこで、何をしながらその読んでいるのかわからない。

話し相手がいる場合はある程度のその人の情報がわかっており、それを前提に話すことが出来る。そして相手の表情や相槌に応じて話を進めていくことができるが、書く場合はその相手を仮想相手方として想像して書くしか無い。その想像の相手方を間違えてしまえば全く伝わらない文章にもなりかねない。

話の内容や意味がわからなければ質問してもらえたり聞き直してもらうことができるが、文章の場合はそれは出来ない。

文章ではある程度色々な人が理解できるように文章を書き、わからないかもしれない箇所は補足しておかなければならない。

それでも意味が伝わらない文章は読むのを辞められてしまうか、わからないままに読み進められて結局理解されないまま終わってしまう。これを会話で考えるとそのまずさがわかるだろう。


このような違いが文章と会話にはあるが、基本的には同じものであるということもわかってもらえるかと思う。

会話が旨い人は質問などが出ないように話すし、スピーチなんかでも色々な人が一度の説明で理解できるように話すことが出来る。これは文章の旨さに直結している。

文章が書けない、下手な人は会話も同じように下手で、相手に伝わるように話せていないのではないだろうか。それ故に相手に質問されてから答えるような会話になっていたり、何度も相手に聞き返されたりしているはずだ。


そしてその会話は自分の知識から組み合わせて発生させられている。

その知識が少ない人は必然的に会話力も低い。小さな子供の会話が同じようなものを繰り返すことや、毎日新しい経験を話すのは会話となる知識が少ないために同じ話を繰り返し、新しい経験が新しい知識となったからそれを次々に話すのと同じだ。


ではどうすれば会話力が上がるのか。まず知識を増やす必要がある。それは本を読めばいい。

本には色々な人の知識や偏見が満載されている。その人の言葉でそれが説明されている。

それを読めば知識や語彙を知ることが出来る。さらにその内容を引用として利用することができ話題とすることも出来る。まさに会話の宝庫だ。


そして本を読むということは相手の意見を能動的に知ろうとすることで、人の話を聞こうとすることにもつながる。

よって聞くことも話すことも書くこともすべては読書から始まると言っても過言ではない。大人になると子供の頃のように新鮮な経験が少なくなる。だからこそ読書をして色々な経験を身につけるのだ。それは小さな子供のように話したい内容に繋がり、自分からどんどん話をするようになる。


私も読書をするようになって文章が書けるようになったのでこれを身を持って実感している。

この文章も、読書をしていたからこそ書けた読書への感想文だ。


文章が書けないと思っている方は、是非とも読書をしてほしい。

その読書が文章を描くことの始まりになるだろう。