ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

栄養士なんて信じるな

世間は栄養士だの管理栄養士だのわけのわからないアホな集団であふれている。

言いたいのは、そんなものは嘘っぱちの幻想だということだ。世間で言うところの栄養など勘違いや嘘でまみれており、それ故にそんな人たちの言っていることを信じていては逆に不健康になる。栄養をきちんと理解している人はこれがわかると思うし、これがわからずにサプリメントなんてバカなものを飲んでいる人は可哀想で同情すらも出来ない。

まず栄養士(以下、管理栄養士なども含めてこう書く)とは何なのか。車の運転免許を持っている人や、無線免許なんかと同じで単に資格を取って人たちだ。そしてもちろん資格を取るためには医学的な知識はほぼ必要なく、指示されている内容を覚えるだけだ。これが看護師なんかとはわけが違う理由だ。そもそも、先に書いたように栄養学のベースは酷いものとなるため、車の運転免許なんかよりも酷い資格と私は考えている。それ程にアホくさい。

図解入門 よくわかる栄養学の基本としくみ (メディカルサイエンスシリーズ)

図解入門 よくわかる栄養学の基本としくみ (メディカルサイエンスシリーズ)


まず、栄養(とその基準)として最も有名なものが、国が出している「日本人の食事摂取基準」になるだろう。これを見てこの栄養素を具体的に摂取していると感じている人は実際にどれだけいるだろうか。日頃からバランスを考えていると思っている人すらも、これだけの量をきちんととっている人は少ないだろう。

私ももちろんこんなものを食べたことがないし、それでも私は健康に生きている。一日一食食べるか食べないかなので、摂取量はおよそ基準値の三分の1以下になる。だがこれでも健康に暮らし、ランニングやトレーニングをしてる分運動量も多いが、そのへんの人間よりも健康的に暮らしている。

なによりも、今現在はこれほどに食べ物にあふれているが、戦時中や戦前はここまでの栄養素を取ることはもちろん出来るはずもなかったが、それでも人々は健康に生きてきた。その証拠にこの国の民族、日本人が現在も栄えているのだ。むしろ、この時代になってから運動能力も思考能力も劣り初め、病気やケガもそれまでと比べ物にならないほどに頻発するようになった。それまで以上に栄養をとっているにも関わらず、それまでの人間に劣るとは、いかにその基準栄養素が当てにならないかということではないだろうか。

現に、イヌイットの人たちは植物が栽培できないがゆえにアザラシ等の動物を主に食べて生活していたし、高地の人々は動物が取れず植物も大きく育たないのでイモを主食として食べてきた。むしろこれらの人々は動物だけ、イモだけ、のように、ある特定の食べ物だけを食べてきた。世界の民族にはこのように特定の者だけを食べる民族が多く居た。

だがこれでも健康に暮らし、日本人よりもハードな環境でハードな仕事をこなして生きている。ケガも病気もしない。ましてや栄養失調などとも無縁だ。


ではこの食事摂取基準とはなんなのだろうか。

たしかに栄養は必要で、それらは過不足があってはならない。だがサンプルとされている食事例のようなものをたべなくても、一つのものをキチンと食べれば、それらの栄養素は大方きちんと摂取できるのだ。日本人がよく食べるとする米にしても、パンの原料となる麦にしても同じだ。

本来であればそれだけでもきちんと食べれば栄養を摂取できるのだが、食べ物としての旨味や見た目の綺麗さを求めていくことにより、栄養素をこそぎ落とし、栄養のない部分のみ食べているにほかならない。例えば、白米は炊いた後に白いことが良いこととされているが、白いということは極度に精米されているということで、精米されているということは栄養素を取り除いているということになる。

パンにしても白さが売りとなっており、その白さというのは結局の所、小麦を精麦し、中心部のみを利用しているということだ。このように、同じ米や麦を食べるにしても、栄養素をこそぎ落として残った少ない栄養を取るのであれば、食事摂取基準のように多量の米を食べる他なくなってしまう。

野菜や果物にしても、見た目の綺麗さや大量生産における効率化のために品種改良や遺伝子操作をして、本来あるはずの栄養素がドンドンと操作され絞り粕のような物を食べているのと同じとなっている。自然種を食べている人たちと比べて、現代人がいかに栄養素の少ないものを食べているかは、それぞれの種の栄養比較を見れば明らかだろう。

単純に考えてもらえばわかるかと思うが、植物というのはそれ単体で生きているのだ。そして種を繁栄させているのだ。いきているということは、その中に、その生物が必要な栄養素が蓄えられている。確かにそれが偏ったものもあるが、穀物などの多くはそれ一つで必要な栄養素は全て賄えていると考えていいだろう。その植物を全てそのまま食べれば、大抵はそれだけで必要な栄養が摂取できるのだ。だが、皮を剥いたり、加工したりして、その本来ある栄養素を剥ぎとってしまっている。それ故に、その剥ぎとった栄養素を別の植物から取る必要がでてきているのだ。

野菜や果物などの実は、皮の近くに栄養素が集中している。簡単には、外からの刺激から実を守るために皮が有り、その皮に供給するために皮の周りに栄養が集まっているのだ。その皮を捨てるということは、大方の栄養素を捨てて食べているということだ。込めも同じく、精米するということは栄養を半分以上捨ててしまっている。


そんな事も理解していないバカたちは「カルシウムを取るため」と牛乳を飲んだり、「ビタミンCの為に○○を食べる」と様々な食品を食べようとする。挙句の果てには、食べることを諦めてサプリメントを飲んだりもするのだ。

栄養士もそれらの極端な栄養素のとり方や、サプリメントの摂取を薦めたりもしている。こんなに馬鹿げたことはない。結局は資格を取るために教わったことをそのまま実践しているのだから栄養士に罪はないが、それらを疑いもせずに実践しているということは非常に罪深いだろう。

例えばカルシウムを摂取すると、その吸収に際して亜鉛が必要になり、亜鉛の吸収に際しては銅が必要になる。そのカルシウムはリンを吸収する際に必要とされているが、リンは加工食品に多く含まれている。そのリンのためにカルシウムを過剰に摂取すると、亜鉛が欠乏し、亜鉛を多量に摂取すると銅が欠乏するのだ。このように、一つの栄養素を取ろうとするということは無駄で、それ以上にその栄養素を摂取することで他の栄養素が欠乏するというデメリットに繋がっているのだ。栄養士にはこんなこともわかっておらず、単に必要な栄養素を摂取させることしか考えていないものも多くいる。


さらに例えると、現在では減塩が流行りとなっているが、それがなぜ必要かわかっているのだろうか。先に出した食事摂取基準は5年おきに改定されているが、今年に改定された2015年では2010年に引き続き塩の摂取量が下げられた、さらには2010年も2005年に比べるとすくなくなっている。国が主導して減塩ブームとなっているのだろう。

だがしかし、その減塩はなぜ必要なのだろうか。具体的に実験結果を理解している人がどれだけいるのだろうか。まぁこれも、それを知っているとすれば減塩というのが馬鹿な行為ということがわかっているだろう。確かに50グラムや100グラムも取っていれば高血圧一直線だが、20g程度であればどんどんと取ればいいのだ。現在ともなれば、それほど毎日それだけの塩分を取ることも少ない。だからこそ意識して塩分を取る必要がある。

そもそもこの減塩は新潟からはじまっている。当時の人々は1日40グラムほど塩を摂取していたことから病気になり、それから塩分摂取を下げようということで減塩となったのだ。1日40グラムはたしかに取り過ぎだが、その半分程度ならドンドンと取るべきなのだ。

さらには年代別のナトリウム摂取量の基準はあるものの、それは体格は考慮されていない。例えば30歳の男でも身長150センチの人もいれば、身長が200センチの人もいる。BMI(21)から考えると平均体重は47.3kgと84kgになり1.9倍近くの質量があるにも関わらず、その摂取基準は同じとなるのだ。こんな馬鹿げたことはない。


基本的に栄養のことなど考えなくても良い。その土地土地の伝統食というものを食べていればそれで十分だ。伝統というのは長きに渡り多種多様な人間によって精錬されてきている。必要なものが増え、不必要な物は減るというように長い年月で精錬されてきたものが伝統なのだ。その伝統を守ってきた人が生きながらえて来たからこそ現在も伝統が継承されてきている。もしそれに栄養が足りていないとなれば、栄養失調でたおれる人が多く、伝統が継承されず潰えているだろう。

日本人なら玄米と味噌汁とたまに魚と漬物を食べればそれで十分だ。

これを言うと、欧州の人たちはちょっとしたパンと多量の肉やおかずをたべると反論してくるバカたちがいる。欧州の人たちからすればそれが伝統食なのだ。欧州には気候的に穀物が栽培できない、または育ちにくい地形が多い。だからこそ、少量の穀物と、狩猟で得た肉を食べるのだ。それも栄養が偏らないようにと多種多様に多量に食べる。それが伝統食なのだ。

日本食は世界に誇れると現在では言っているが、世界で注目されているものの日本では注目されていない。むしろ、アメリカや欧州の料理がもてはやされている。栄養学から見ればこんな馬鹿げたものはないのだ。米や野菜を栽培する土地と気候がある民族が、何が悲しくて肉や乳製品を食べなくてはならないのか。

戦後のアメリカからの伝統侵略が日本食を破棄する教育へとつながったが、「乳製品を食べないのは偏食」という馬鹿なアメリカ中心主義の考えがこの伝統を破壊しているのだ。


栄養士はその職業上にそれらの基準を使わざるを得ないが、そもそもに摂取基準は国ごとに違う。民族や体型の違いということもあるが、そもそもにはその根拠となる栄養学が違うからこそその違いが生まれているのだ。日本にも学者ごとに必要とする栄養素は違う。それ程にいい加減なものなのだ。

例えば新しい論文が出る度に、摂取基準が見直されることや、測定器の精度があがるにつれて食べ物の栄養素が変化する。それ程に刻々と変わる栄養学をベースにしていては、毎日食べ物を変えていかなければならない。そんなものを当てにせず、それまでに培われてきた伝統のみをベースとして考えることが最も根拠のある方法なのだ。

栄養士の言うことを聞くということは、その刻々と変わる栄養学のどれかの地点についてのみ考えているということだ。伝統を無視し、それら栄養士の言うことを聞いていれば、栄養失調がドンドンと加速してしまう。



栄養失調とならないためには、栄養を無視するのが一番なのだ。