ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

本は10冊同時に読め! 成毛 眞(著)

すばらしい。本を並列に読むことの重要性も説明されていることながら、それよりも本を読むことの重要性を説かれている。

私の知り合いでも、本を読む人と本を読まない人の知識の違いや考え方の違いには驚かされる。私も「読書」はしているものの身にはついていないと感じている。それ程に、本を読む人たちはかけ離れて上を行っている。

著者の成毛眞もこう言っている。

P5.
よく、「自分は給料も安いし、チャンスに恵まれないから庶民なんだ」という人がいるが、逆なのだ。「庶民的」なことしかしないから「庶民」になり、「庶民的」な生活しか送れなくなるのである。

まさに真だ。知識がないから発想が乏しく、発想が乏しいがために行動力も劣る。知識が少ない為に人に踊らされる。自分で考え行動が出来ないため人に頼るしか無い。これら全て知識の差がモノを言う。知識は本を読めば得ることができる。これは以前読んだ「人はなぜ学ばなければならないのか」にも書いたとおりだ。


成毛眞は読書が好きだからといって、自分が好きな行為を褒め称えてこれを訴えているわけではない。いかに読書が重要でその知識が役に立つかを自分の経験から感じ、それが役に立つのかを説明したに過ぎない。成毛眞を知らない人がいるかもしれないが、マイクロソフト株式会社の元社長になる。本書では、その地位につけたのも読書をしていたおかげだと書かれている。成毛眞についてはWikipediaの成毛眞を参照いただきたい(内容はわずかだが)。


また、本書は「読書」と言う習慣を持たない人に対して、読書を強要しようという書籍でもない。本書の冒頭で以下のように書かれている。

P1-2.
それでもかまわない人は、この本を読む必要はない。買うのをやめて吉野家にでも行けば、大盛りの牛丼を1杯食べられるだろう。
この本で紹介するのは、「庶民」から脱するための読書術である。

いかに読書が重要であるか、「庶民」から脱却するためにはどのような読書をする必要があるかを書かれた書籍ではあるが、それは現在「危機感」を持っている方に向けて書かれており、「危機感」を持たず、一生「庶民」のままで良いと考えている方には、本書を読むこと自体を薦めていない。ただし、「庶民」の方には社会や政治に対する不満を言わないでほしい。それはあなた自身が変えることを拒んだ結果なのだから。

P4.
たとえば「趣味は読書。最近読んだ本はハリポタ、セカチュー」という人は、救いようのない低俗な人である。
また、ビジネスハウツー書ばかり読む人も、私から見れば信じられない人種である。
まず、『金持ち父さん 貧乏父さん』系の本を読んでいる人、こうすれば儲かるという投資本や、年収1500万円を稼げるといった本を読んでいる人は、間違いなく「庶民」のまま終わるだろう。できる社員系の本を読んでいる人も同じである。

読書は数を読めば、専門書を読めばいいというものではない。その質が重要になるのだ。人と同じ本を読んでも人と同じ庶民のままで終わってしまう。だからこそ人と違う本や、人と違う考え方を持って行動しなければならないのだ。「◯◯成功法」という本を読んだとしても、それは誰かがすでに行なった結果であり、それはすでに通じないものとなっているかもしれない。また、結局人の後を追うのであれば庶民と変わらない。
本書の後半では成毛眞が感銘を受けた書籍の一部が掲載されているので、それらから読み始めてもいいかもしれない。読書の師を見つけるというのは「人はなぜ学ばなければならないのか」にも書いたとおりになる。

P26.
また、何より重要になってくるのが、前項で触れたような「超並列」読書術の「能動的」という特徴だ。
騙される人は、情報を組み立てる力がないから騙される。ダイエットや健康法にしても、1ヶ月前までは体にいいと言われていたものが、1ヶ月後には体に悪いと言われる時代だ。目の前の情報をただ受け取るだけでは翻弄されてしまう。
とあるテレビ番組で紹介した納豆ダイエットが問題になったが、納豆を50回かき混ぜて食べると痩せるという情報を何の疑問も持たずに信じ、納豆を買いに走るほうがおかしいのではないか。冷静に考えれば、それぐらいで痩せるのなら世の中の人はみんな痩せているということに気づくだろう。

本を読まない馬鹿な人達は、自分の責任を人のせいにしようとすると感じる。私の身の回りにもいるが、「テレビでこう言ってた」、「こう聞いた」、「こう書いてあった」と、自分で考えもせずに採用した結果を、自分には否はなく、全て情報源のせいだと言い張る。これはスマイリーキクチ中傷被害事件の加害者たちと同じ理屈になる。
自分で調べ、考え、行動するのではなく、自分に都合がいい情報のみ取捨選択し、それを選んだ結果が間違いであったとしても、それは「情報源」のせいだと言い張る。その情報を自分が選択したことは棚に上げてしまう。
こういった人たちの言い分はこうだ。「私は人を疑ったりしない」、「私は素直だ」、「私は人を信じている」。馬鹿だとしか思えない。全て嘘だ。本当に自分が自分に都合のいい情報だけを取捨選択していることに気づいていないのであれば重症だとしか言えない。逆に「全て疑え」と言いたい。
取捨選択しているかしていないかの調べ方は簡単だ。「このツボを買えば幸せになる」と言ってツボを売りつければいい。断れば「なぜ私の言っていること、ツボを信じないのか」と質問すればいい。他にも「全て疑え」ということを信じてもらえばいい。色々と方法はある。

本を読みいろいろな知識を持っていれば、その情報が正しいか間違いなのかを判断する材料は多々持っていることになる。情報を持っていなかったとしても、その情報の信憑性を調べる力を持っている。選択した結果が間違いであったとしても、それを選んだのは自分だということが理解できている。それを次に繋げることができる。決して前者にはなりたくない。

P71.
「目的意識を持って本を読め」というセリフをよく聞くが、一体どんな目的を持つのだろうかとふしぎになる。
受験勉強や資格をとるために本を読むのならともかく、仕事に役立てるためとか、教養を身につけるためとか言うような浅ましい考えて本を読む限り、仕事もできるようにならないし教養も身につかないだろう。
それは、自分で設定した目的に縛られてしまうからだ。

本書の核心はこの部分になるかもしれない。読書は自由であるべきだ。自由な発想をするために読書をするのに、目的を決めてしまっていたのでは読書が自由でなくなる。勉強となってしまう。気をつけてほしい。


本書で笑えた点が一箇所あった。

P128.
読書は文章を読み解くものではない。細部に集中すると全体が見えなくなるので、本の世界観をつかめなくなる。それでは、物事の本質をつかむことはできない。
ましてや、本を読む時に3色ボールペンを使うなど言語道断だ。
「えーと、ここは面白いから緑を使って、ここは重要だから赤かな」
こんなことを考えながら本を読むのは、もはや読書とはいえない。受験で暗記するために参考書に線を引くのと同じである。この調子で本を読んでいたら、1冊読み終えるまでにどれだけの時間がかかるのだろうか。暇な人しかできないだろう。
なかには、3色ボールペンを使って星新一三島由紀夫の本を読み解く人もいるのだから、信じられない。情報は得られても、感動は得られない、思考力を養うというが、かえって思考を停止させているのではないだろうか。

完全に齋藤孝さんのことを言われている。私もいくつかの齋藤孝さんの書籍を読む中で、本に線を引きながら読むのには同意できなかったがまさにこの内容だ。最近は齋藤孝さんの本を連続で読んでいたが、同じ著者の本ばかり読んでいれば考えが洗脳されてしまう。それが正しいことだと誤認してしまう。だからこそ、並列に多種多様な本を読み、それらをリンクさせながら読むのだ。
まさに齋藤孝さんの本を読んでいる中で、成毛眞の本を読むことで「並列読書」の重要性を見に持って実感できた。是非とも実践してほしい。

大人げない大人になれ!

大人げない大人になれ!