ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

伝統は大切なのか?捕鯨は必要なのか?

何故あなたは今和服を着ていないのか?歌舞伎や能、狂言を見ずにバラエティ番組を見ているのか?なぜ天皇陛下を崇拝していないのか。

そもそも伝統とは何なのか、「伝統」と口にしている人たちは伝統の意味を分かっているのか。

Wikipedia 伝統: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E7%B5%B1
伝統(でんとう、英: tradition)とは、人間の行動、発言、思考及び慣習に見出される歴史的存在感を総称していう。または、人間の生存・生活の中に長い歴史を通して表される種々の慣習や形式、価値観を総体的に指し、狭義には、個々の集団が個別に有する慣習、形式、価値観を指す。

「人間の行動、発言、思考及び習慣に見出される」ここが重要だ。人間の行動や発言、思考は個々により違うし時代によっても大衆のそれは変化していく。要するに伝統とは自然に発生し自然に淘汰されるべき事柄なのだ。よってそれは逆説的に考えると時代に合わなければ淘汰されるべき事柄でもある。

昨日にケネディ駐日大使が捕鯨についてのツイートをしてそれにアホみたいに群がる「これが日本の伝統」主義の発言をみてバカバカしく思うので書く。

捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間

捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間


「伝統は守り継承していく必要がある」と考えている人に問いたい。何故伝統は守らなければならないのか?


日本にも数々の伝統が生まれ、現在まで継承されてきたものもあれば自然淘汰され消えていったものも数しれず。今では歴史記録として残っておらず「無かった」も同然の伝統もあるだろう。

例えば「和服」は日本の民族衣装であり伝統だ。捕鯨を伝統だという人にこの和服を守る必要があると唱えている人がいるだろうか?「俺は和服を守るために普段から和服を着ている」と言う人を見たことがない。そもそも祭り以外に男が和服を着ているのを見ているのが無いほどになる。
祭りで和服を切るのも「伝統」を重んじたものではなく単に「お洒落」や「イキッた若者」程度の感覚であり、普段から和服を着て下駄を履いて歩いている人がいれば悪い噂の種になるであろう。

捕鯨は日本の伝統であり、国外の人間がそれを卑下するのはおかしい」と言うのであれば、それを言っている人間は国外の問題について一切の不満を口に出していないのであろうか?
昨今では反中や反韓と称して中国や韓国の文化について中傷する話題をよく見る。日本でクジラが昔から食べられてきたように、中国や韓国では猫や犬を食べてきた。捕鯨を「伝統」と言うのであれば犬や猫を食べるのも「伝統」であるし、それぞれの国民の思考や習慣も「伝統」であり、外国人の日本人がとやかく言う問題ではない。うんこ酒も例外ではない。


そもそも伝統というのは「伝統を作ろう」と称して作られたものではなく、その当時としてそれが大衆的な方法であり、それが長く続けられてきたために「伝統」として崇められるものとなっている。

捕鯨に関しても鯨油の採取や食用とするのが目的から始まったものであり、その目的が害虫駆除や肥料としても利用されることに広がり、現在では調査捕鯨とや商業捕鯨として続けられてきている。
だがココで考えて欲しいのは、当時は現在のように灯油やガスがあったわけではない。だからこそ捕鯨からそれらの原料を採取することから始まった。だが現代には化石燃料から始まり石油燃料がある。代替エネルギーである電気がある。鯨油の需要はなくなり、食用としても希少として高価なものとなり、嗜好品になり上がっている。
また漁法も現代は進化しているにもかかわらず「伝統」の名において時代に見合わない方法が実践されているというのも問題になる。

これは時代に見合わない伝統ではないのか。なぜ必要の無いものを必要の無い方法で取得する必要があるのか。

今日始めたことを明日も続け、それが子孫に継承されていけば十分伝統になり得る。現代に見合わない過去の伝統を無駄に続けていく必要があるのであればその伝統は捨て、新たな伝統を作るために今から新しいことを始めていかなければいけないのではないのか。


国外の伝統も考えて欲しい。

スペイン式の闘牛は1000年以上続いてきた伝統になる。だがしかし現代に見合わない残酷性と、観衆の思考の変化、動物愛護団体からの批判を元に法律によって禁止された。これが伝統の淘汰だ。
闘牛が淘汰されるべき残酷性のある伝統とするのであれば、国外から見る日本の捕鯨が同じように残酷性の高い漁で有ることを受け止めるべきである。


また、「伝統」説以外にも「日本はその他の国と違い鯨油だけを採取し捨てているわけではない」と言う説もあるが、これもおかしな話である。捕鯨の論点は使い道ではない。

そもそもそれらの人々が把握しているのか確認したいのだが、日本も20世紀初頭では一部の地域の捕鯨において鯨油の採取のみを目的としていたという記録も残っている。(捕鯨問題の歴史社会学 P48. 表1-14 日本捕鯨業による生産物)

これを考えると「伝統」派も「無駄にしていない」派も捕鯨に関する知識や他国からの認識を理解せずに発言していると捉えられる。

もし「捕鯨」の正当性を他国に訴えるのであれば、捕鯨によって鯨の数は減少していない事や、日本は「調査捕鯨」であること等、きちんとした理論を持って説明すべきである。

反証の出来ない根拠のない認識や思考は宗教である。(カールポパー反証可能性より)


昔からの認識や思考であれば他国の宗教も考慮すべきであり、日本人が信仰している神道は他国の宗教とは大きく違うことを理解しておかなければならない。万物には全て八百万の神が宿っているとする自然信仰からの精霊崇拝と、その他の唯一神の宗教とでは大きく考え方が違う。
山に立っている木を一本切り倒すのにも、山を守っている木を切ることに躊躇し、感謝し、無駄なく使うことを考える日本式の考えと、山に木があることは開拓の邪魔になり、邪魔だから切り倒す、と考える思考では根本的な理解に違いがあるのだ。

これは日本式の考えが素晴らしいということや、他国の考えが誤っているというものではない。これば地域の文化や伝統的な考えなのだ。

だからこれは日本人が言うところの「鯨を骨まで無駄なく使っている」と解釈と説明は欧米人だけではなく、他国の人々に「捕鯨の正当性」を伝えるのには意味がない。理解されない無意味な説明となっているのだ。
外国からすれば「使い道」が問題ではなく、「殺戮」を行なっていることが問題なのだ。



最後に記しておくが私は捕鯨の反対派ではない。反対でも賛成でもない。鯨も食べたことがあるし、長崎という土地柄から近所に鯨専門店があるほど鯨は身近なものになる。

「伝統」というバカな言葉をプロパガンダに捕鯨に賛成するバカたちに考え方を改めて欲しいと思い本記事を書いた。


もし本当に「伝統は守り未来永劫に渡り継承していく必要がある」と考えている人がいるとすれば、歌舞伎等の伝統芸能保護のために税金がいくら使われようと問題視しないのであろうか?あなたはそれらの伝統を守るために金銭を払い続ける覚悟を持っているのか?

他国で生贄が伝統だとすれば、あなたはその伝統を理解して推奨していくという考えがあるのか?


是非とも「伝統」と言う言葉をもう一度考え直し、「右に習え」で周りの真似をして「伝統、伝統」と叫ぶわけではなく自分の考えを持ち賛成、反対、沈黙をして欲しい。「長いものには巻かれろ」と言う考えも日本人の「悪い伝統」ではないのか。


私は日本が大好きだ。「私は無宗教」と言う人間が「もったいない」と言う言葉を自然に使える日本人が大好きだ。これは伝統ではなく、自分の考えなのだ。



この記事を投稿する直前に「日本人はそろそろ捕鯨が与える相当やばい国際的イメージに気づくべき」を見つけた。この記事にもあるように、「国際社会」として考えるのであれば、「日本」と言う殻に閉じこもっているのではなく、他国の考えも尊重し行動していかなければならない。

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