ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

日本人の平和ボケ

「日本人は平和ボケしている」というが、それはエグいほど感じている。日本人の平和ボケレベルはエグい。

この日本人の平和ボケは、第二次世界戦から戦争や争いが起きていないからと言われているようだが、私はそれに加え民族性もあるのではないかと考えている。例えば東北地方太平洋沖地震の前にも阪神・淡路大震災新潟県中越地震、はては東京大地震など大きな地震は数多くあり、さらには東京地方など、日本各地で大型地震が起きることは今現在も常に予想されている。

それにもかかわらず、地震の備えをしている家庭がどれだけあるだろうか。地震の備えというのは「災害保険に入る」というようなレベルではない。そのように考えていること自体が平和ボケそのものなのである。地震が起きたら家が壊れる。家が壊れたら立て直すために金がいるから保険に入ろう。貴方自身の命は考えられておらず、かつ、保険で家が立て直されることすらも前提とされている。その前提自体が平和ボケなのである。

これは日本人の民族性で、よそはよそうちはうち、対岸の火事と考えていることにほかならないかと思う。例え当人であっても、過去の自分は自分ではないのだ。日本人は忘れることの出来る民族なのである。例えば阪神・淡路大震災を経験しているにも関わらず、今現在も当時に考えた対策をしている人間がどれだけいるであろうか。私の身の回りの人間も多く被災しているが、すでに地震対策などほとんどしていない。災害用のリュックが一つ置かれている程度になる。

「有事」のアジア―迷走する中国と平和ボケの日本

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長崎や広島では平和教育が徹底されていると聞くが、そんなものは笑い話でしか無い。平和教育について調べると「戦争は悲惨だから二度と戦争を起こしてはいけない」という考えがベースにあり、それらからユダヤ人の迫害やアンネの日記について解説されるという。

これをしてなんの意味があるのだろうか。私にはちっともわからない。それらを読んで戦争の悲惨さの何がわかるというのだろうか。確かにそれらを読むことで「こんな事実はあった」という認識は出来るかもしれないが、根本的に思うことは「自分はこうなりたくない」ということではないだろうか。例えば原爆を落とされるにしても、自分や自分の家族でなければいいと思っているのではないだろうか。

それを証拠に現在も原発問題や廃棄物処理について、自国や自分の地域になければいいという考えしか主張されていない。結局のところ「自分に害がなければいい」と言うことでしか無いのだ。これが果たして平和教育なのであろうか。

本当に心からの平和を望んでいるのであれば、「平和を望んでいるなんて幻想」のように争いを望まないはずである。


閑話休題


平和ボケの話に戻ると、今現在も東北地方太平洋沖地震について話題に上げ「自分たちは歌で元気づける」や「応援している」と主張している馬鹿な人間たちがいるが、本当にそれでどうにかなると思っているのだろうか。非常にバカバカしく、笑えないレベルに低俗である。

当事者たちが望んでいるのは歌や応援などではなく「金」と「仕事」だ。こういうと馬鹿な人間どもが「金の亡者」と騒ぎ立てるがこれが現実なのだ。結局のところ金がなければ何も出来ない。


あまりにも驚愕した例としては、ハイチ地震の際に「被災地に千羽鶴を贈ろう」と考えて実行しようとしたバカどもが居たということだ。更にそれをmixiに公開したところ多数の賛同者が現れたという。これは血の気が引くほどのヤバさである。平和ボケなどというレベルではない。

ハイチ地震被災者たちは食べ物がなく、着るものもなく、暖を取るための燃料や毛布もない。そして住む場所もないのだ。そんな人間に対して千羽鶴を送れば元気づけられる、喜ばれると思う精神は精神異常としか考えらない。まさに対岸の火事だ。

当事者たちからすると明日の命ではなく、今の命をつなぐために必死なのだ。そんな人たちが千羽鶴を見てどう思うか、燃やして一瞬の暖を取る程度にしか役に立たない。


そんな役に立たないものを作り、それを送りつける労力と費用があるのであれば、その額の現金を送るのが一番の貢献なのだ。インターネット上で活動するのであれば古着屋から処分品を集める行動を起こしたほうがいい。その千羽鶴を送りつける貨物のスペースにそれらを詰めたほうがいかに有意義であろうか。いや、それらも迷惑だ。現金を集め、現地で調達した方がいい。そんなこともわからないのであろうか。

千羽鶴で元気になってほしい」。そんなもの伝わるわけがない。


もしあなたがこれを否定し、「千羽鶴や歌、人の応援は支えになる。元気になる。」と馬鹿な考えを持っているのであれば、1週間を1日500mlの水だけで生活してみてほしい。そして8日目に「見ず知らずの他人に歌を歌ってもらう」か、「食べ物を貰う」か選択してほしい。歌を選ぶバカなどいるのであろうか。9日目に食べ物が食べれることがわかっていれば自分の意地のために頑張れるかもしれないが、9日目以降も同じことが続くことを考えてほしい。歌を選べば死ぬのだ。そんな状態なのだ。

こんなことも想像できずに、「歌を送る」、「元気を送る」と考えるのはかなりヤバイ考え方である。


それら全てを否定するわけではない。私も歌に支えられたことはある。

だがそれらは全て、空腹が満たされ、寒さをしのげ、ある程度先までの生活が出来る前提があるから支えになるのである。ある程度の「安心」があってからこその支えである。支える対象がなければ何も支えることが出来ないのだ。


こんなことを言われないとわからず、自分で考えることが出来ないからこそ平和ボケと言われるのだ。

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