ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

井の中の蛙

井の中の蛙。まさにこの言葉がピッタリの場面に出会った。

自分の知識と、自分の中の常識、自分の理想で物事を判断し、他の意見を聞こうと、知ろうと、受け入れようとしない人たち。

最近流行りの言葉で言うとこれは一種の宗教だ。自分教とも言おうか。自分の考えが絶対的に正しく、その考えを曲げようとしない。折角他の意見を貰ったとしてもそれを聞こうとせずに自分の中の常識、知識だけで判断する。これだと自分の知識が増えることはないのでますます考えが孤立していく。

自分の意志で井の中に住まうカエルと同じだ。井の外に出るチャンスがあるにも関わらず、それを拒み井の中を心地良いと感じてそこに閉じこもろうとする。これでは井の中にいるために自分の考えを正当化し続けるしか無い。

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先に書いておくとこの記事の内容は個人攻撃をしたいわけではない。個人をサンプルには出しているものの、それは例示しているだけであり、同じような事象は多々ある。この例から、「自分の考えを考える」きっかけとなれば嬉しい。

まず、先に書いたような井の中の蛙状態の人を私は多く見てきた。プログラマとして働いてきたからこそ多く出会ってきたとも言えるかもしれない。料理人や金型加工職、デパートスタッフ、家具設計・販売、測量士、喫茶店経営、ネイルサロン経営など色々な職を経験してきたが、このプログラマという職にはそのような人たちが多い。


決してこれは「完全悪」なことではない。プログラマになるにはある程度一つのことを信じて行動する必要があることも多々ある。例えばプログラミング言語など、「○○と言う言語が良い」と聞いても取っ替え引っ替え使うことは出来ない。「これ」だと決めたもので開発を始めたら、事実それ以外に素晴らしい物があったとしても決まったもので数年間開発を続ける必要もある。

取っ替え引っ替え使っていてはどれも中途半端な知識になるゆえに、一つの言語に決めたらある程度それを使い続けて学ばなければならない。他にどれだけ素晴らしい言語があると言われようと簡単に移行しては毎年言語を変更する必要が出てくる。

だからこそ自分が使っているプログラミング言語以外を批判する人が多いのかもしれない。自分の使っている言語が素晴らしいということを肯定するために他を批判する。先から書いているように特にRubyユーザにはこれが多い(これもPythonユーザの私からの攻撃だ)。


だが、このような考えを硬直的に持つのは危険だ。私はポケコンやPC8001mk2のBASICからプログラミングを始めたが、1年ほどでC言語に移行した。その次はPerlC#に移行し現在はPythonだ。この15年程度でいくつかの言語の変遷を辿っている。もし硬直的な意見を持つとすれば15年間だろうと20年間だろうと同じ言語だけを使い続けることになるだろう。

決して20年間同じ言語を使い続けるのが悪いことではない。だが、他の言語も試し、自分の手に馴染むもの、使いやすいものがあればそれを認めなければならない。例えば私はPerlからPythonへの以降は1日で決めた。Pythonを触ってみたその日にPythonが自分にあっていることがわかり、その日以来メンテナンス以外はPerlを書いていない。


プログラミング言語の例は良くないかもしれないが、世間には大多数の人間がおり、その人間それぞれに十人十色、別々の考えがある。それは理解して置かなければならない。自分がどれだけRubyが好きで使いやすく感じていたとしても、Rubyを使いづらいと感じる人がいるのも確実だ。自分がRubyが最高であると思っていても、PerlPythonJavaが最高だと思って使っている人がいるということは認めて置かなければならない。

考えが凝り固まっている人の中にはJavaユーザは「頭がおかしい」と思っている人もいるようだが決してそうではない。人それぞれ考え方が違い、その考え方を表現でき、その考えを表現しやすい言語を使っているのだ。私はPythonのデータモデルが気に入りすぐに移行した。Pythonは「インデントが気持ち悪い」、「selfと打つのが面倒くさい」と批判する人間もいるが、それらはきっとPythonを使ったことがないから言える話なのだ。

人が多く褒めるから良いというわけではないが、多くの人が良いというものにはきっと何らかの理由があるのだ。例えば子供の頃にはコーヒーやビールが苦いと感じて「美味しいわけがない」と感じただろう。だが今は違うはずだ。そのように自分自身も変わり、それによって考えも変わっていく。クサヤさえも臭いだけではなく、食べてみれば美味しさがある。その魅力を理解せずにそれをけなしてはいけない。


閑話休題


知り合いと話していると、プログラマが話しているPodcastがあるという。そこでその知り合いが聞いていたのがRebuild.fmと言うものだ。その37回放送を聞いていた。

そして最初に書いた驚きを感じた。

その驚きがわかりやすいように放送内容を少々引用する。その放送だけで驚く箇所は何箇所もあったのだが、プログラマでなくてもわかりやすい場所にしておいた。

僕自身、時計をしなくなってからもう相当たつもんね。どのくらい。いつからしてないかな。20年位もうしてないんじゃないかな。っていうくらい時計してなくて。

時計はだからもうしないんだよね。

時計をする人っていうのはファッションで時計をするから、スウォッチだったりロレックスだったり、そういうものをするわけ。だからなんか機能とかそういうのを求めて時間のために時計をするっていうのはもう存在しないから。そのおしゃれな人たちがさ、あのなんかわけのわからないへんなAndroidだかなんかしらないけど、するはずがないんだよね。そもそも。

時計の時代は来ないよ絶対に。


(時間を見るために時計をしてるわけじゃないからね。)

そうそう。服がこういう服だからロレックスだったり何だったりっていう時計をするっていうファッションだったりはあるし、まぁ例えば何、フィットネス系のやつとか、ああ言うやつはデバイスとしてフィットネスやってる感があるし、そういうおしゃれの一部でしかないからさ。

だから時計ですって言われてもね。時計にいろんな機能があるって言われても。


Podcastでは二人が会話していたのだが、その二人が全く同じ考えであるようだ。

まずわかりやすいのは「時間のために時計をするっていうのはもう存在しないから。」という内容だろう。これを読んでいるあなたが時計をしているかどうかはわからないが、時間を見るために時計をしている人もいるだろう。私も時間を見るために時計をしている。

根拠があってこの会話があればその根拠を否定すればいいわけだが、この放送の多くの会話には根拠がない。後に続く内容のように根拠の無い会話がずっと続いていた。

例えばプログラマには腕時計はたしかに必要がないかもしれない。ずっと机に向かいプログラムを書いていればPC画面に時間が表示されている。又は事務所内にも時計があるだろう。そして、スマートフォン関係のプログラマであればスマートフォンをいじっている時に時間を見れるかもしれない。

だが考えてほしい。一番単純には宅配便の配達員だ。配達員の大多数は時計をしている。なぜか。時間を見るために。

私も物流と配達の管理に関わっていたことがあるが、物流や配達には時計がなければ仕事にならない。「腕時計は必要ない」と言う人たちの理屈は「スマートフォンを見ればいい」と言う理論が多いようだが、その人たちはスマートフォンを見ている暇など無い。

更に単純な例を出そう。あなたも宅配便の不在票を受け取ったことはあるだろう。昔であれば配達局に電話して再配達を依頼していたが、最近では不在票に運転手の電話番号の記載がある。その電話番号に電話をかければ配達員につながる。そしてその場で再配達の依頼が出来る。あなたは再配達の時間を聞くだろう。配達員は現在残っている荷物の状況と現在の時刻から配達可能な時刻を伝える。その際に電話の画面を見ていては会話が途切れる上に、電話の画面を見る時間がかかってしまう。腕時計を見れば瞬時に時間がわかる。これで遅延なく、会話も途切れること無く再配達の依頼は完了する。

または工事現場では固定時間や乾燥時間、到着時間など多くの時間管理が必要になる。その度にスマートフォンを取り出して時間を確認するわけには行かない。そもそも作業中にスマートフォンなど取り出して操作できる暇はない。腕を見たら時間が瞬時にわかる時計が重要なのだ。防水で防塵、電池切れの心配も無く、グローブでも操作が出来る腕時計が。


デパートスタッフもそうだ。会議や商品の到着時間、電車やバスの到着時間、発送可能時間など数々の時間を確認する場面がある。その時に客前や会議室の中でスマートフォンを取り出すわけには行かない。喫茶店のスタッフもそうだろう。世の中の事務所に閉じこもった人間以外の大半は腕時計を必要としている。

事務所に閉じこもったプログラマとしてだけの職業経験であればこれに気づくことが出来ないのだ。例えばこの資料を見てもらえばわかるかと思うが、時計市場全体や腕時計市場は現在も拡大している。それ程に時計のニーズがあるということだ。時計の市場が縮小していると考えている人たちはこのような資料すら見ていないのだろう。経済状態もわかっていない。


「時計をする人っていうのはファッションで時計をするから、スウォッチだったりロレックスだったり、そういうものをするわけ。」については正しくはある。ファッションに関連して時計を使い分ける。それは当たり前だ。仕事に行くのにランナーズウォッチは付けないし、ランニングに行くのにグランドセイコーは付けない。これはファッションに関連するだけで使い分けるわけではない。ファッションが変わるということは動きが変わるということで、動きが変わるということは時計の目的も変わる。

例えば私も数個の時計を持っているが、仕事に行く時とランニング、ガキンチョと遊ぶとき、勉強をするときでは時計が違う。ランニングに行く時にはストップウォッチ付きでラップタイムが使え、汗に強く丸洗いが簡単に出来る軽いものを使う。ガキンチョと遊ぶときは公園などで擦ったりぶつけたりすることが多いので傷がついてもいいモノ、更にはガキンチョを抱えてもガキンチョが痛くないように薄いプラスチックの時計をつける。ファッションに応じてではなく目的別に時計は変える。目的別に靴を履き替えるのと全く同じ理由だ。靴を履き替えるのはファッションではなく目的だ。山登りに革靴で登る人は居ないだろう。

また、スウォッチやロレックスという名前が出てくるのもまず見た目前提であると言える。

「デバイスとしてフィットネスやってる感があるし、そういうおしゃれの一部でしかないからさ。」。これに関しては酷い。酷い勘違いとしか言えない。フィットネスをしている感のために腕時計をしている人がどれくらいいるのだろうか。例えば極端に言えば駅伝で走っている選手はおしゃれのために腕時計をしているのだろうか。否。ペースを見るためだ。こんな単純なことすら想像できないのは少々酷い。

そこら中で1000円程度の時計が売っているがあれほどパフォーマンスがいいものはない。1000円で10年動く時計が変える。だがファッション性はない。なぜ売れるのか。実用性があるからだ。


この会話はAndroid Wearが出た時の時計に関する会話の流れだが、この発言をしているNaoki Hiroshimaと言う方はこのように自分の考えに偏った発言を多くしている。同じ回でもAndroidGNU/Linuxを使っている人を「若くて苦労している人」の様な発言をしているし、他の回も聞いて確認してみるとEmacsなんかについても同じように固着した考えを持っているようだ。


このように一つの考えに固着するのは危ないことだ。例えばプログラマとしても自分の考えだけにしがみついていると市場のニーズを見誤ってしまう。自分の常識と他人の常識、世間の常識がわかっていなければニーズのないサービスやアプリを作ってしまう。だからこそプログラマは事務所にこもらずに大海を見る必要がある。自分を忘れ大海の大波に身を委ねてこそ大海を知れる。

日本ではほとんどの職業は東京に集まるが、なぜ東京に集まるのか、それは大海を知るためだ。大勢の集まる、最新の集まる、環境の違う人たちが集まっているからこそ様々な常識に溢れ様々な考えを知ることが出来る。東京にいるにも関わらず事務所にこもっていては意味がない。


この会話を聞いて私も凝り固まっている考えがないかと考えなおすきっかけになった。理論があって、根拠があって固着するのは仕方がない。だが、自分のために固着しているのは多くは悪にしかならない。

この考えも固着していないかが心配だ。