ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

人は制限があるから生きていける

「制限が多くて何も出来ない」「制限に縛られて自由な発想が出来ない」「制限のせいで失敗した」等々、世間では「制限」を悪だと思っている人が多くいるようだ。

だがそれらの人は大きな勘違いをしている。

人間は制限があるからこそ、物事を考え、発想し、生きていけるのだ。本当に制限がなければ物事を考えることなど出来るわけがない。

時間制限を忘れよう

時間制限を忘れよう


簡単には「作文」を考えてほしい。

「作文してほしい」を言われてあなたは何を書くだろうか。実際にそれを書いてほしい。

大半の人がこの時点では書き始めることが出来ず、「何の作文か」と言う事に疑問を持ったのではないだろうか。

制限を悪としておいて、自分から「何の作文」と言うように制限を欲するなどおかしなことだ。


だがここで「読書感想文」とすれば大半の人が書き始められるだろう。制限があり、その制限の枠組みが小さいほどに選択範囲が狭くなり行動できるようになる。選択範囲が大きくなれば自分で何を選択していいかわからず、その制限を狭めるように自分で求めていくのだ。

ここで更に「作文は何分で何枚書けばいいのか」と言う制限を求めようとするものもいる。制限がないのであるから何百枚でも何千枚でもいいのだ。なぜ自分から制限を乞うのか。「何分で」という質問も制限を乞うてるのと同じだ。2時間でも1日でも1週間でも1年でも生涯にわたってでもいい。


ここで「作文」と言うのも制限になることに気がつけただろうか。「作文をしてほしい」と言われて書き始めることが出来た人も極わずかいたかしれないが、では、「何かして」と言われただろうするだろうか。いや、「して」と言われるのも制限だ。制限がないとは私は何も求めてはならない。求めること自体がその反応を制限することであり、私は無言だ。その無言の前であなたはどう行動するのだろうか。

「作文」と言う「文章を書く」と言う制限が緩められた。あなた何をしてもいいのだ、そして何をしなくてもいいのだ。仏教で言う空だ。

時間的制限も先に書いたようにない。あなたは何をしてもしなくても、どれだけの時間かけてもかけなくても、ここにいてもいなくてもいいのだ。だがひとつだけどうしても避けられない制限がある。「寿命」だ。これはどうしても制限が解除出来ないので、時間的な制限は存在することになる。さてあなたは何をするだろうか。


あなたが出来る「発想」というのは所詮あなたの知識の制限されている。あなたはその知識の中で考え発想する。無限の知識があれば何をするか無限に悩むだろう。

「考える」と言うことも制限がある。あなたは考える時に日本語で考えているだろう。アメリカ人はもちろん英語で考える。

この日本語というのも大きな制限になっている。そしてその日本語も、あなたの知っている単語や語彙など制限される。あなたと私では制限の範囲が違うが、きっと私はあなたより制限は少しばかり広いだろう。


この世のすべては制限だ。有限なあなたが生きる世界は有限だ。有限である人間が無限を想像できるわけがない。無限とはなにか一度考えてみるべきである。


有限である私達は有限の中でその制限を拡張して生きていくのだ。

制限は邪魔なもの、悪ではなく、あなたに選択肢を与えてくれているのだ。


選択肢が無限ということは選択肢がないとの同義だ。それがいかに怖いことかわかっただろう。


制限の中で生きていくから人生なのだ。今できる事を今やる以外に道はない。


制限を嫌うのであっても、それは自分の制限を拡張することしか出来ない。だからこそ、制限を嫌うのであればまず勉強し知識を付けなければならない。

本を読め。経験しろ。考えろ。