ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

読書とは何なのだろうか

私はブログで読書感想文なるものを書いているが、それを書いていてふと思ったことがある。

読書の感想とは何なのだろうか。


私の過去の読書感想文を見てもらえばわかってもらえるかもしれないが、私の読書感想文は記事の90%くらいは書籍の内容について触れていない。
単語や文レベルではそれらについて触れているが、多くの内容はそれらについて自分が考えていることや、その本を読む前から自分が抱いていた感想になる。

読書をしたにも関わらず、これはその読書した本の内容からはあまり感じることがなかったということだろうか。

つい最近の感想文はそれらの書籍とは関係ないものを抜き出して削除したり別の記事にしてみたが、そうなると読書感想文は極端に短い。そして分けた記事の中身は薄い。書く気も起きない。

分離された読書感想文は、ただ単にそれがどのような内容でそれがどのような人向けに書かれているかということだけになってしまった。

これを経験してみると、今私のしている読書とは何なのだろうか。そんなことを考えてしまう。


私は読書をする必要があるのだろうか。

私がしている読書とは何なのだろうか。


私がしている読書は、そもそもに自分が考えている内容を他の人がどう考えているかを知ろうとしているだけなのかもしれない。だからこそ、読書をして抱く感想は私の考えがどう言う風に書かれているか、それによって私の考えはどう変わったのかという感想しか無いのかも知れない。

読書の目的も人それぞれでいいのかもしれないが、だがこのような読書の方法であれば新しい知識や考えは蓄え、生み出されないだろう。

私は今までに数多くの多種多様な書籍を読んできたつもりであったが、今思うとどれもこれもタイトルをみて私が興味を抱いてきたものだけだ。

読書をするのであれば、私の興味のないことについてもしていかなければならないでのはないだろうか。


ふとこれについて思っただけで、私の今までが何だったのかという疑問が次々に湧いてくる。

私は何をしたいのだろうか。