ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉リチャード P. ファインマン(著), 大貫 昌子(翻訳)

先日に読んだ「ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉」の下巻。

本書や先の上巻は非常に読みやすくわかりやすいものであると感じていたがそれもそのはずだ。翻訳者である大貫昌子ファインマンの直接の知人であったという。

知人と言っても子どもが同窓生であったという理由から知り合ったようだが、それでも20年以上の付き合いを続けたという。そのおかげで翻訳するに当たりわからないところを直接質問して翻訳できるというのは非常に大きなところである。本書は難易度の高い科学や数学は扱われていないが、どうしても本人でなければ解釈が難しいというところが出てくる。これは日本語の文章を日本人が読んでいても同じように感じる機会はあるはずだ。

だが原作者と知り合いであるために直接質問し、原書の読者としてわからなかったところを質問しながら翻訳したということは原書よりも具体性が上がっているのではなかろうか。それくらいに読みやすかった。

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)


内容としては上巻と同じくファインマンの考え方や行動についてが大きいが、下巻は一つづつの話が少し長く、上巻の短編とは少し違った趣がある。だが変わらず面白い点は何も変わっていない。

ファインマンの書籍はいくつか購入しているが読んでいないものがまだある。読もう。



ファインマンの書籍を薦める人がいるが、読んでみるとそれもわかるだろう。世間ではいわゆる「天才」というものは「発想が違う」と言う風に思われているかも知れないが、それはどう発想が違うのかが理解されていない。本書を読めばそれがわかる。

それは「常人とは違う発想」をするのではなく、「常人が目をつけていないところに目をつけるだけ」なのだ。何も常人には見えていないのではない。常人にも見えている場所、常人が無視し、先入観を持ち、固着している部分を柔軟にし、わからないところはわからないといい、わからないところをそのままにせず、諦めずに考えているだけなのだ。

こんなこと誰にでもできる事だろう。誰にでもできるがやっていないことをやっている人間が新しいことを発見するのだ。世間の魚にしても、昆虫にしても、「それが何か」調べようとしている人間が要るだろうか。それを調べている人間が新種を発見しているということを考えればコレもわかりやすいだろう。



是非とも本書を読み、この自分が知っていたふりをしていたことに気がついてほしい。

そして少しでも考える人間になってほしい。