ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

般若心経は間違い? アルボムッレ スマナサーラ (著)

私は今までにも書いているように仏教徒であり神道者でもある。どちらも熱心な信者というものではなく「その考え方を大切にしている」というものになる。

仏教徒としては日本における仏教の理解である大乗仏教ではなく、上座仏教、釈迦の考え方に近い釈迦仏教といえばいいだろうか。上座仏教でもおまじないを唱えれば救われるという考え方があるがあれはどうも好きではない。

別にそれらや大乗仏教について否定するわけでもないし、キリスト教も否定するわけではないが、どうも「信じる(唱える)ものは救われる」というのが納得がいかない。

たしかにそれを信じる、唱えるということはその考え、教えについて忠実に守り従うということであると考えると「それも正しいだろう」と思うところであるが、現代の解釈はどうも「何も教えに従わなくても、何も行動しなくても、単に信じ(唱え)れば救われる」と言う解釈がされているようで恐ろしいというところである。

これがまかり通るのであれば、殺人鬼と言われる人間であったとしてもそれを信じ(唱え)るだけで救われるというのはどう考えても本来の教え(導き)とは乖離しているようにしか思えない。またそれは本来そういうものでもないと考えている。

般若心経は間違い? (宝島社新書)

般若心経は間違い? (宝島社新書)

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

般若心経絵本

般若心経絵本


ということで仏教徒であるものの現在の大乗仏教、特に奈良仏教以降の鎌倉仏教、いわゆる葬式仏教とされているものには少々疑い深いところがある。

何度も言うがこれらが悪いというものではない。どうも信じられない部分があるというだけで、それは悪ではないし、信じている人間も悪ではない。むしろ、どのような宗派にしもそれを信じ、その教えに従い行動している人たちは尊敬に値する。

「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」というように、上座仏教にしろ、大乗仏教にしろ、解釈は開祖たちによって違うといえど結局目標としているところは同じはずだ。なのでどの宗派であろうと結局は釈迦の期待した人間、世界であるように努力している素晴らしき信念を持った人たちである。



ということで私は大乗仏教のお題目を特に覚えてはいなかったのだが、理由は忘れたがなぜか般若心経を手に入れた。そしてそれを読んでみるとよくわからない。仏教については色々と勉強したつもりであるがよくわからない。

なので解説書をいくつか読んでみたが、それでもよくわからない。解説書によって書いていることは違うし、その解説がおかしいと思える部分がある。そもそも漢字のお経を見てある程度意味がわからないというのもいささか疑問を持つところだ。

例えば大きく疑問を持ったのは、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」。この最後の色即是空というのは理解できたとしても、空即是色というのはどうも理解が出来ない。

まずはベン図を思い浮かべて空が色を内包しているという形を考えれば理解しやすい。コレは理解できるだろう。だが空即是色ということは、色が空も内包しているというのはおかしいではないか。空は色になりえるわけがないし、そもそもこのベン図では「空=色」となってしまう。理解できない。

そして最初に戻ると、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」、「舎利子」と、菩薩が阿羅漢にこと伝えているという。阿羅漢は釈迦の直弟子にあたる位で言うと最高位、如来に相当する。だが悟りにも達していない菩薩(かなり失礼な言い方を失礼)がその如来に対して教えを解くというのはおかしな話ではないだろうか。

どうも大乗仏教の阿羅漢と、上座仏教の阿羅漢とは解釈が違うようだ。

そして回って最後の「故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚」。これは翻訳は難しいが、要するには般若波羅蜜多は最高のおまじないで、このおまじないを唱えれば苦しみ悩むことは一切無くなる、これは真実なり。というところだろうか。

私の勉強不足であるかも知れないが、釈迦は悟りを開く時に至ってそれは自助努力でしか無くおまじないなどはないと言っていたように思う。であればこれはおかしいではないだろうか。さらに、大般若波羅蜜多経を300文字以下にまで圧縮したにも関わらず、その一割以上をこの説明に割いているというのもどうも納得がいかない。



これはあくまでも私が疑問に思ったところであるので、きちんとした解釈が有りその説明がされるのかと思うが、私はこのお題目を読んでこう疑問を感じてしまった。何度も言うが別にこのお題目を否定しているわけではない。般若心経は偽経だと解釈されることもあるようだが、それはどうあれ、般若心経で救われ、般若心経を通して仏教を知り、その真髄を求めるということからも全然それを否定すべきことではない。

このような考えを持っている中で本書のタイトルを見たら買わない手はないだろう。ということで読んだのだが、やはり私同じような疑問を持っている方は要るようだ。本書のタイトルはいささか攻撃的ではあるが、やはり本書でも私が疑問に持った点が「経の間違い」であるとされている。また更に多くの点が指摘されているということで勉強になった。

何度も言うがタイトルも含めて本書は少々過激である。

P101-102.

最後まで読んできましたが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないか」というのが私の感想です。『般若心経』は仏教用語をたくさん並べていますが、パーリ経典を読んで学ぶ人からみると、経典に値しないダラダラした作品で、欠点がたくさんあります。作者はただ適当に短くまとめてみようと思っただけで、そんなに真剣ではなかったようです。

P103.

ということで結論です。『般若心経』は中身を勉強しなくてもいい経典です。そもそも中身がないし、論理的でもない。だから、意味がわからないことで困らなくてもいいのです。意味がわからないのは私たちの頭が悪いのではなく、先生の頭が悪いからです。先生が私達に教えるならば、「わかりやすく教えてくださいよ」と文句を言う権利が生徒たちにもあります。生徒たちが苦労して、出来の悪い先生を守る必要はないのです。

ですから『般若心経』がわからないのは、恥ずかしいことではありません。真剣に考えないことです。文化的な楽しみとして付き合うのが、害がなくて適切だと思います。デザインとして使ったり、写経するなら意味を考えずに一文字一文字写経するのがいいでしょう。

あまりにも過激である。ここまで言っている人をみると、それが事実なのであったとしてもなんとも言えない。例えば本書を書いたのが一般の研究者であれば少しはなんとか言いたいが、本書は上座仏教の中で釈迦の教えを最も守っているとしている上座仏教の長老になる。その人が言うのであれば本書の内容は正しいのかも知れない。

だがしかし、先にも書いたように「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」であり、上座仏教の中でも解釈がわかれるように、それをどうしても一般市民にもわかるように解釈を変える必要があるのであればそれもまた仕方がないことだと私は思う。

「全て出来ない人間は関わるな」と全てを拒絶するのではなく、少しでも釈迦の教えが世に普及し興味を持つ人が増え、その真理に近づこうとする人が出てくるというのであれば、その一部だけでも、その戒律を緩めたとしても一般移民に広める価値はあると私は考える。

日蓮にしても、そのように一般市民に広く理解できるようにと頑張り布教したはずだ。だからこそ本人の名前が宗派名になるほどの支持を得たのだ。そしてそのような人たちが今までに頑張ってきたからこそ日本には仏教が浸透し、今現在までもそれが生き残っているのかと思う。その全てを理解し実行できる人のみが伝承してきたのであれば、現在のここまでの普及はなかっただろう。

もちろんそのおかげで私も仏教を知ることが出来た。

本書は少々過激な内容になるが、今までに般若心経のみを読み学んできた人たちは少々勉強がてらに読んでみても良いかと思う。たしかに過激ではあるが、そもそもの仏教の考え方を知ることが出来る。そうすれば他の経典を読んだり、そもそもの釈迦の考えを知るチャンスになるのではないだろうか。