ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

弱者に厳しく死者にやさしいこの国この国人

先に「アホなんじゃねーかな」で頭のおかしな人たちについて書き、その記事の最後でSTAP細胞の時の反応と比較した。

一方では命を助けるために税金を使えと暴言を吐き散らし、他方では税金を無駄に使ったと騒ぎ自殺にまで追い込む。

そんな人たちを見て思うのは、この国人は「死者に優しく、弱者に厳しい」ということ。これはそういう国人性なのかも知れない。

日本に仏教が伝わる際に、中国を経由した時点で仏教が道教と結びつき魂魄思想が入り込んだ。それ故に死者の魂は尊い

さらには仏教より以前からある神道も、八百万の神として万物に神は宿るとし、死者は神になる。それ故に神道の視点からも死者は神に等しく、死者は崇めるべき存在だ。

 

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

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「弱者」とはだれか (PHP新書)

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それ故に日本人は死者には非常に優しい。「死んだ人の悪口は言うな」と耳にすることもよくある。

なぜ生きている人間の悪口は咎められることもなくポンポンというのに、死んだ瞬間からそれは侮蔑される行為になるのか。「死人に口なし」とも言うが、生きている人間に対してこそ、悪口など言うべきではないのではないか。生きている間は相手の批判も聞ける。であれば悪口など言わずに正面から批判して反論を待てばいいだけだ。

葬式の光景でよく目にするのはどれだけ喧嘩をし批判し合い憎んでいた相手であっても、それが死人となった途端に「あいつとはよく喧嘩した。だが良い奴だった。」と美化されてしまう。

これはなぜか。

簡単だ。先に書いたように「死者の悪口を言うべきでは無い」と考えるヒトたちがいるからだ。「言うべきではない」のように、これもこの国人的な「本音と建前」という「思っていても口にしない」ことを美徳と考えているからになる。本心ではどれだけ憎んでいたとしても、それを口にせずに居ることが素晴らしいのであろう。

それを美徳と考え実行できるのであれば、相手が生きているうちからそうしてあげることのほうがどれだけ素晴らしいことだろうか。それをしないのも結局はこの国人的な「死者には(建前的に)優しい」と言う結果だ。

だからこそ「死者の悪口を言うべきではない」ではなく、「死者の悪口を言うな」なのだ。

そしてそれが美徳と思い込んでいる。自分がどれだけ憎んでいようと、それを口に出さないことは自分も努力しそのように行動している。そうしている自分が誇らしいと感じているのだ。もし周りの人間が死者について不平でもこぼしていればそれは非難の対象とするだろう。努力している自分が素晴らしく、そんな努力をせずに不平をこぼす人間は自分よりも劣る人間なのである。

そして生きている人間の悪口を非難する人間はいないのであるから、「死者の悪口を言う酷いやつだ」と世間に言いふらし、どんどんと追い込んでいく。どんどんと自分より下の人間として畳み込んでいく。こんなに馬鹿な話はないだろう。

そもそも何の関わりを持っていない人にも、よく知らない人にも、ニュースを見て死んだことを知れば「ご冥福をお祈りします」や「惜しい人を無くした」とTwitterFacebookで発言する。本心からはそんなことを思ってもいないが、そういう発言をすることで「自分は人のコトを考えられる人間ですよ」、「その人のことを心から心配していましたよ」と、「こんな健気な私は素晴らしいでしょ」とアピールを始める。

これも「本音と建前」だ。そんなことを思っていなくても、たとえそれがどうでも良いと思っていることでも、そう書いて置くだけでで自分の株が上がるのであるからそうしない手はない。

そしてコレも同じように「自分はこんな行動をしているのだから、それをしない奴は悪いやつだ」と考え、その発言をしない人間を非難する。もちろんこれも生きている人間はどれだけ非難しようといいからだ。

芸能人や有名人が死ぬと、その人に世話になっていた人がコメントを出さなければそれも非難する。酷く中傷されることだろう。

だがコレはどう考えたとしても、なぜインターネットやメディアを通してコメントを出さなければならないのか。本当に世話になり感謝をしている人間こそ、そんな表面的で軽率な場にコメントを出さず、心からそれを悲しんでいるのではないだろうか。

Twitterなどで「ご冥福をお祈りします」と書いている人間ほど馬鹿らしい物はない。なぜそれをTwitterなんかに書くのか。そこに書いてなにがその遺族や関係者に伝わると言うのか。どう考えてもそれは世間のアホな連中から非難を浴びないように、世間のアホな連中を自分の見方につけようとしている行為でしか無いだろう。

何も思っていないが故に「気にかけていた」とアピールしたい連中が書いたものだ。だが世間ではどんな浅はかなことでもコメントした人が賞賛され評価されるのだ。

そしてさらに注目を浴びるためにウソかマコトか思い出話を始める。思い出話など今してなにになるのか。その人の評価が上がるような話であれば、死んだ後ではなく生きている最中にすべきことだろう。

なぜ死んでからなのか。これも「死人に口なし」でウソを並べているだけでもそれに反論されないからだろう。今ならどれだけ媚を売ろうと、ウソをつこうとそれを非難されることはない。もしそれがウソであると知っている人が居ても、その自分の美談を批判することはその人の評価を下げることでしか無い。

こんなことが評価されるなど、世間の人間はどれだけ表面的なことしか考えず見ていないのか。

また相手がどの宗派に属しているのかも知らずに、関係なく「ご冥福をお祈りします」とはどのような考えからになるのか。相手のことを知らず、考えもせず、興味もないからこそそんな口先だけのことが言えるのだ。

ここまででもわかってもらえたかと思うが、とにかくこの国人は死者には「建前的に」優しい。

だがその代わりというべきか、生きている連中、たとえそれが死にそうな人であっても非常に厳しい。いや、むしろ相手が弱っていれば居るほどに厳しい。先のSTAP細胞の例は良い見本だろう。

普段は権威のある人間を自分が叩くことが出来ると思うとそれに優越感を感じ、その優越感を実行に移すために過剰に攻撃するのだ。これも「私はこんな不正をする連中を非難します。許すことが出来ません。」とアピールしたいのだろう。

そして相手を自殺にまで追いやる。非難した連中は自分が殺人者であるということを理解しているのだろうか。自殺にまで攻撃を続けた一人の人間なのだ。

世間にはそんな殺人者が闊歩している。そして今もその行為を続けている。「いじめを無くす」や「いじめはいけない」と言っている人間がまさにそのいじめを行っているのだ。それも自殺に追いやるほどのいじめだ。

そんな大人ばかりの社会にどうして子どものいじめがなくなると思うのか。

そんな大人を手本に子どものいじめもエスカレートしていくということがなぜわからないのか。いじめを問題に思うのであれば、「いじめのことを考えている」とアピールするのではなく、その手本になるべき大人になることが近道であろう。

「いじめはいけない」と言っている連中は、コレも世間体のために本心では思っていないことを言っているだけに過ぎないのだろう。

このようにこの国はまさに「弱者に厳しく死者にやさしい」社会なのだ。いや、正確に言えば「自分の優越感のために人を死ぬまで追い込み、死んだらそれもまた自分の世間からの評価のために利用する」国人の国なのだ。

政治家の腐敗などというが、腐敗しているのこの国ではなくこの国人だ。国人が腐っているからそこから選出される政治家も腐っているのは致し方ない。

こんな国に誰がした?

この国人だ。