ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

単語の使い方

私は以前から「言葉は共通認識ではない」や「「普通」は共通認識じゃないぞ」の記事で、言葉を知らなければ人とのコミュニケーションを取ることが出来ない指摘してきたつもりだ。だがやはりというべきか、相も変らずもちろん現在もそれらの人々は世間を闊歩している。

だがそれは先の記事に書いたように、それらの人間はそれらの人が言うところの情弱であるので自分で調べようとしないのだから考えや思考は変わるはずがないことだ。

以前にも「単語に意味はない」という事を書いたし、言及いただいた記事にも書いたが、結局のところ本来の単語に本質的な意味はなく、発話環境に依存しその環境によってその単語の意味や解釈は変わるということである。

 

 

大学生の日本語リテラシーをいかに高めるか (大学の授業をデザインする)

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だが単語の意味がいくら発話環境に依存すると言っても単語には暗黙的な意味があり、それが発話環境により解釈が変わるという事である。

だがその単語の暗黙的な意味も聞き手によって変わるという事は理解して置かなければならない。

 

例えば中国語は日本語における漢字から構成された文字なので、中国旅行をした時でも手紙を書きたくてホテルの従業員に「手紙が出したい」と伝えるかもしれない。中国語がわからず、英語もわからないのであれば「手紙」と紙に書いて伝えるかもしれない。

だがそうするとトイレットペーパーを持って来られるだろう。中国語で「手紙」とはトイレットペーパーのことだ。字を見た意味的にも日本語の手紙(Letter)よりもしっくりくる。逆に日本で中国人が「手紙」と書けば、従業員はレターセットでも持ってくるだろう。

このように同じ文字でも同じ綴りでも意味が異なる場合というものがある。日本語は世界で見ても分けのわからない言語になるために発音まで似ることはないが、ゲルマン語系のようにも元々は同じ言語をベースとしているものには同じ文字で似た発音でも意味が全く違うものがある。

例えば英語では贈り物のことを「Gift」とも言うが、ドイツ語で「Gift」は「毒」のことである。ドイツ人に対してギフトと言ってプレゼントを渡すとどうなるかはわからないし、箱にGiftと書いて手渡すとそのまま捨てられてしまうかもしれない。

これは文化的な違いなどではなく、単なる文字の羅列では全く意味が異なるという例だろう。そもそも文字など単なる線の組み合わせて言葉の音を表したひらがなやカタカナのような文字(表音文字)か、線の組み合わせで意味を表現した漢字のような「表意文字」であるだけだ。その線の組み合わせは元となる言語があれば同じであったり、そもそもに違う言語でも組み合わせ限界から偶然的に似るかも知れない。例えば日本語でも長音(ー)と漢数字の1(一)はフォントでグリフの差がなければ識別できないだろう。

これもグリフで差がわからなければどのように読むかと考えてみれば、周りの環境(文字の羅列)に応じて判断して読み分けるだろう。だが日本語を勉強しているような外国人ではそれが出来ないし、日本人であったとしても「東北」を「とうほく」と読めたとしても「東北沢」を「とうほくさわ」や「ひがしきたわざ」のどちらと読むかわからない。放出や十三などの地名や名前に至っては読みを知っている人しか読めない文字などいくらでもある。


このように世界的に考えたとしても、相手に伝わるように単語を選び、その単語に対してどう理解するかというのはとても重要なことなのだ。

 

「言葉なんて伝われば良い」というが、まさにそうなのだ。

 

伝われば良い。だが伝わるように言葉を選ばなければならないからこそ言葉は難しく、いろいろな単語、語彙を知り、それから時代、場所でそれがどう解釈されているかと言う事を理解して置かなければならない。

時代や国、文化だけではなく、「普通」にも書いたようにそれぞれ人十人十色でその解釈は異なるという事も理解して置かなければならない。

「言葉は伝われば良い」ではなく、「言葉は伝わるようにしなければならない」と言うのが正しい。例えばこのブログ内においても私は単語をわかりやすい物を選んでいるつもりである。だからこそ間違った意味の単語を便宜上使っている場合もある。

例えば「寿ぐ」や「夾雑物」、「蒐書」と言う単語を使ったとしても、本を読まない人からすれば読みも意味もわからない、ただの文字や漢字の羅列として判断されるかもしれない。


単語に意味はなく、その単語の解釈は人によって異なる。そもそもこのブログもただの線の羅列でしか無い。その羅列を見てそれがどのような線の組み合わせかを記憶から呼び起こし、その組み合わせがどのような意味を持っているのか思い出し、それを想像し感じる。

様々な記憶を呼び起こし、その記憶からそれを感じているのだ。であればそのパターンは人の数だけ無限大にある。同じ人間でも場面によって違うのだ。そのような欠陥だらけの人間にどのように物事を伝えるか。コレほど難しいこともなかなか無い。

例えば「赤」と言う文字を見れば赤い色をすぐに思い浮かべられるだろう。だがこの文字の色は濃い灰色だ。その灰色の線の組み合わせからどうしてそれが思い出せるのだろうか。それは完全に読み手に依存したシステムだ。そして「赤」と言われて実際に思い浮かべた色も千差万別全員で違う。実際に網膜に入った刺激も様々な要因で変化しているのだから同じものに対して、同じ色に対して同じ名前と感じているなどどこにも保証はない。

実際私は色盲だ。あなた達とは見える色が違う。だがコレは私に限った話ではなく全ての人間のタンパク質の組み合わせが違う以上全ての人間が異なって認識しているのだ。簡単には青色のペンキに緑色のペンキを混ぜていったものを見せていき、どの段階で青から緑に変わるかはバラバラなはずだ。これも青と緑というそれぞれの認識や理解が違う結果だ。

 

だからこそ相手の立場に応じて相手が理解している単語を使う必要があるのだ。相手が物事をどう判断しているかを理解してそれを理容師て伝える必要がある。

コレは面倒臭いだろう。だからこそ人に伝えるということは難しいのだ。