ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

動物の殺処分ゼロなんて不可能

Twitterを見ていると昔から「Stop殺処分0」やら、「殺処分反対」のようなツイートが回ってくる。

昔からというように、ここ最近でも、数年レベルでも、数十年レベルでも殺処分は無くなっていないし、今後数年や数十年レベルでもなくならないだろう。いや、今後にペットの飼育を完全規制する法律が施行されない限りは殺処分自体も無くならないだろう。

先の「殺処分ゼロ」というのは現実味のない幻想であり、そもそも本人はそれを口にしているだけで行動などしていない。行動を伴わない発言など意味があるものでもないし、そもそもにその言葉を発する事自体がより悪影響を及ぼしている。

殺処分ゼロと本当に願うのであれば、それはペットを禁止することを先にしなければならない。「ペットは家族」という頭のおかしい人も居るが、それは「ペットが家族なわけがない」に書いた。

 

 

殺処分ゼロ―先駆者・熊本市動物愛護センターの軌跡

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いのちの花―ペットの殺処分0を願う女子高生たち

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犬を殺すのは誰か ペット流通の闇 (朝日文庫)

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そもそもなぜ殺処分は存在するのか。殺処分の対象となっているベースは犬だ。

猫は犬と違い狂犬病や噛み付きなどの被害が無いためにほとんど捕まえられることは無い。他の動物もほとんどないためにここでは犬だけで考える。

 

では犬がなぜ捕まえられ殺されるのか。現在の日本では野犬が繁殖して数百匹単位で捕まえられることなど無い。ほとんどが捨て犬を捕まえたものか、引取を希望されたものだろう。

そしてその犬はどこから来たか。ペットだ。

人間に飼われていたものが、何らかの事情で保健所に収容されたのだ。

ここでまずわかるだろう。殺処分を無くすには全面的にペットを禁止すれば簡単だ。コレは今のペットを全て殺すのではなく、去勢を義務付ければ数十年後にはペットは自然消滅する。であれば自然的に殺処分はなくなる。

だがこれを言うと、殺処分ゼロと言っていた人間も抵抗する。「捨てる人間が悪い。ペットを家族としてかわいがっている人も居る」などというコレもいかにも人間的な考えだ。ペットが家族なわけがないとは先の記事に書いたとおりだ。

 

確かに非常にペットをかわいがっている家庭があるのも事実だ。だがそれも、先の記事に書いたように簡単に捨てられる。

例えば最近でも「東北地方太平洋沖地震」で多量のペットが放置された。私は「阪神・淡路大震災」を身近に経験しているが、当時の仮設住宅はペットが禁止であったために多量のペットがコレもまた保護施設に預けられた。

本当に家族と思うのであれば、仮設住宅がペットが不可能であれば野宿でも何でもしてペット共に暮らそうと思うのではないのか。だがそうではない。子どもとは絶対に別れようとはしないが、ペットは保護施設に預ける。

当事者がどのような気持ちで手放したかはわからないが、これもペットを「捨てた」という事実には変わらない。どれだけ愛していようがペットはペットなのだ。そして、自身の生命以前、家族の生命以前、自身の生活環境のために手放されるのだ。

このようにどれだけ愛しかわいがっていると思い込んでいようとペットは捨てられる。よって、ペットを全面的に禁止しない限りは「捨てる」と言う行為は繰り返される。


このようにペットはペットが存在する限りいつでも放棄される状況にありえるのだ。その放棄される状況が存続する限り殺処分が無くなることなどありえない。

こういうとドイツの例を出されるかも知れないが、あれは法律で殺し方を明文化しているからこそ殺処分しづらいようにしているのだ。

そしてそれを例に、日本でも同じようにしろと言い出す。だがそうすると国家としてどれだけコストがかかるか計算したことはあるだろうか。

 

例えばあなたは殺処分反対団体に年にどれだけの額を寄付しているだろうか。100万?200万?それは年収の何%だろうか。

寄付金がいくらだろうと年収で考えて欲しい。あなたが動物を自身と対等と考えているのであれば年収の50%は寄付しているはずだろう。年収の1%や数%の寄付であれば、それはあなたは殺処分をその程度としか考えていないということでしか無い。

そもそも、年収の1%どころか、殺処分0と言っている人間の大半は寄付などしていないだろう。ただ単に口先だけで吠えているだけだ。これは「 寄附やボランティアという意識が低いと思う」と「アホなんじゃねーかな」に書いたとおりだ。

あなたがどれだけ吠えようと金銭を寄付しなければ何の意味もない。あなたが無駄吠えし他人を巻き込もうとしていることは邪魔になっている。吠えている人間が寄付していないなど、それを聞いた周りの人間も寄付する必要はないと感じるだろう。言葉ではなく行動で示せ。

「やらぬ善よりやる偽善」。とにかく殺処分ゼロを目指したいのであれば金を出すことだ。犬を生かし、食わしていくのには金がかかる。例えば犬一匹を10年間食わしていくだけでどれだけの費用がかかるだろうか。それを数十万頭、数百万頭という規模でやるにはいくらの額がかかるだろうか。

もしかしたら「私はボランティアに参加している」と言い出すかも知れないが、そんなことに意味はない。ボランティアより金だ。あなたが年収500万円だとしても、250万円を寄付すれば一人のスタッフを1年間フルタイムで雇えるのだ。

あなたが暇暇にやっているボランティア活動など表面的なものでしか無い。そんなことをする暇があるのであれば、その時間でもアルバイトでもし、その全額を寄付したほうが団体からすればより有意義だ。

とにかく金がかかるのだ。


そしてこれを法律で明文化するというのであれば、その費用は税金から捻出する必要がある。増税に反対している人間が多いようだが、法律化するのであればかなりの増税が必要に成る。あなたはそれに賛成できるのだろうか?

賛成できるのであればまずは年収の半分を寄付して欲しい。消費税を数%上げることなら賛成できると言うとしても、あなた以外の人間にそれを望んでいない人は居る。その人たちを巻き込むのはおかしいことだろう。

例えばあなたは死刑賛成派の人のために増税するという活動があればそれを受け入れるだろうか。

世の中の運動というものはまずはそれに賛同している人たちで行動していかなければならない。だからこそ口より金が必要なのだ。

 

そしてもし殺処分が禁止されれば、今まで犬を放棄しなかった人間も「殺されないのなら」と放棄しだす。今までよりも多くのペットが放棄され、「可愛い時期だけ飼育して、大きくなれば手放す」と言うスタイルも定着するかも知れない。

だとすれば更にコストが増加していく。「殺処分が存在する」と言うことがペット放棄に少なからず抵抗をかけていることも考えなければならない。

あなたが今利用している電気も。電気を少しでも無駄に使えば「○○円電気代が高くなる」と考えるだけであれば気にしないかも知れないが、「○○匹の鳥が死ぬ」と考えれば意識も変わるだろう。

ペットの殺処分だけではなく、あなたが今使っている電気や電波が原因でどれだけの動物が死んでいるかということもぜひ考えて欲しい。

 

そしてそもそも、殺処分を無くすことは犬にとって幸せなことなのだろうか?幸せなのはあなたではないか?

「殺処分ゼロ」と行動していることに幸福を感じているあなたの幸福のためではないのだろうか?

例えば殺処分ゼロになるとしても、その犬は結局狭い保護施設で生き続けることに成る。刑務所のように職務もないので単に狭い部屋に隔離を続けられるだけだ。それで生きている意味はあるのだろうか?

犬はその時に殺されるより、その環境で10年間生き続けることが幸せなのだろうか?

例は良くないが人間で考えて欲しい。保護された子どもが監獄のように狭い部屋でご飯だけ与え続けられ寿命をまっとうする仕組みがあるとする。それが幸せだと思うだろうか。確実に反対運動が起こるだろう。

だが殺処分ゼロとは、それをペットに行おうとしていることでしか無い。

だだっ広い保護施設で広々と走り回って生きることなど出来ない。その土地を購入するのにも維持するのにもコストがかかる。それも引き取り手を探しやすいように人口の多い地域で展開しなければならないのだ。いくらかかるだろうか。そしてやはり結局金だ。

 

殺処分反対と吠えている人間は結局「殺さない」ということしか考えておらず、その後のことは考えていないのだろう。犬の生き方ではなく、それを反対する自分のことしか考えていないのだろう。

もちろんそれだけの数の動物がいれば繁殖も起こるだろう。施設内でも増加していく。

これもまた去勢を考えるだろうが、動物の本来の目的は繁殖だ。その目的を奪ってまで生きながらえさせるなど、これが人間の勘違いなのだろう。

 

殺処分が悪い、殺処分はしかたない、どちらにしろきちんと考えて欲しい。