ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

なぜ海外で日本人が戦ってはいけないのか

「海外で日本人が戦う姿を見たいのか」

憲法改正による集団的自衛権についてのキャッチフレーズのようにこの言葉をよく見る。そしてコレを自信満々に叫んでいる人間も要る。

集団的自衛権についてはおいておき、この言葉のみをピックアップしてもいかにコレがバカバカしく危険な考えであるかわからないのだろうか。

なぜ海外で自衛隊が活動してはいけないのか。自衛隊を「災害救助隊」とでも勘違いしているのだろうか。確かに現在では自衛隊地震や台風、洪水の災害救助が主な仕事となっているだろう。だがコレを中心業務と思っていることはあまりにも平和ボケ過ぎないだろうか。

海外で災害救助などの平和活動をすることには反対しない国民が、なぜ海外での平和活動のための戦闘を反対するのであろうか。

災害救助以外でも、現在まででも自衛隊イラクに派遣されている。当時は安全地帯での活動に限定されることが多かったが、先の言葉からすればコレすらも「やってはいけない」ことなのだろう。

まず第一に、他国の平和が世界の平和であり、世界の平和が日本の平和であるという前提を理解して置かなければならないだろう。

町内で殺し合いが起きているとする。その殺し合いが自宅で起きていなければ自分は安全だと思っているのだろうか?いつ自宅に飛び火するかわからない。だからこそ、自分が安全に過ごせるように殺人者を捕まえたり、解決に向けて行動していかなければならないだろう。

自分の家が安全だから他の家でどんな事件が起きていようと知ったこっちゃない。これが先の考えそのものだ。自分に関係なければ自ら首を突っ込んでいく必要はない、自分に害が有るまでは他人ごと。

この考えはまさに最近の日本の近所づきあいにも現れている考えだろう。近所づきあいが希薄になった昨今だからこそ、他国のことはどうだっていいのだろう。そしてその他国を放っておくことで自国が多大な被害を受けようと、被害を受けるまでは現実味がないのだろう。

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自衛隊は日本を守る組織であり、日本を守るとは世界を守ることすらも意味する。

核兵器を使おうとしている国が有るとし、それが日本に打ち込まれて被害が出るまで放っておくのか、打ち込まれる前にそれを阻止するのか、そんな簡単な違いでしか無い。

そもそも日本が標的でなくても、別の国が標的になっていようとそれは阻止すべきことだろう。自分さえ良ければよいのか、世界の平和に貢献してもいいのではないだろうか。

戦闘に限ったとしても、是非海外に派兵し戦闘できるようにして置かなければならない。

 

例えば中国が日本に攻めこんで来ると仮定する。

日本に攻め込んできた中国軍と戦うことを批判する日本人はいないだろう(いないと願いたい)。これは日本国、いや、日本国民を守るための戦闘であることは考えなくてもわかる。

だが自衛隊が海外で活動できないとするのであれば、中国人が日本の領土に攻めこんでくるまでは何もできない。日本に攻めこむために、領土ギリギリに堂々と武装を固めているのが見えるとしても何もすることは出来ない。

現在の戦争からすると、それだけ入念に準備された状態で攻めこまれればひとたまりもない。核兵器でも使われれば一巻の終わりだ。だがもちろん、国外で戦ってはいけないのであれば飛んでくるミサイルを阻止する以外に何もすることはない。

そんなことを阻止するには自衛隊を海外に派兵しなければならないのは簡単にわかるだろう。止めに行かなければならないのだ。日本を出て、海外に戦いに行かなければならない。

世界の未来が日本の未来だ。日本は平和に存続する権利が有り、その為に世界の平和に貢献する義務が有るのではないか。

世界の平和の邪魔をする敵を排除できるべきではないか。「敵」とは非常に難しい概念ではあるが、だがその「敵」を判断するのは日本、日本国民の自由である。世界が敵とみなしていても、日本がそれを敵としなければ参戦しなければいいだけなのだ。

だがそれが敵であれば自国を守るために戦う必要が有る。そのためには海外に行く準備として法を整備する必要が有る。その「いつか」が来てから考えては遅いからこそ、今からその「いつか」の為に考えて行動していく必要が有る。

そもそも自衛隊とはそのための組織だ。

一身独立し一国独立す

 

日本人一人ひとりが独立して考えなければ国の独立はない。あなた方が自分の考えもなく他に賛同して流されるようではこの国の未来はない。

そして、一つ一つの国が独立して考え行動できるからこそ世界が存在し得る。

 

個は多の一部であり、一部である個が集まり多となる。

どちらの存在なくしてはどちらも存在し得ない。

であれば双方が存在し続けられるように個は多のために、多はこのために活動しなければならない。