数学を考える
先日に「超・超面白くて眠れなくなる数学」として、書籍の感想とその書籍の問題点を書いた。
だがコレはその書籍の問題ではなく、昨今の数学教育の問題点でも有るかと思う。
例えば学校教育ではそれを理解しているかという「本質」よりも、それを暗記しているかと言う「手続き」を重視する。問題を解くのに数式(公式)の意味を理解していなくても、その問題に当てはめるべき数式を暗記していればそれを解くことが出来る。
だが数学は公式を覚えていなくてもその問題の本質を理解していれば時間をかければ解くことが出来る。例えば2次方程式の解の公式を覚えていなくても、それを理解していれば平方完成から解くことが出来るのと同じだ(もちろん平方完成も暗記していれば意味のないことであるが)。
学校の試験はテキストの参照を許さず、それを暗記しているかだけの指標で判断する。だが社会に出れば暗記など論外で、資料からその根拠を探し、それが正しい証明として引用や、参考としなければならない。
そうなれば「暗記競争」で戦ってきた学生は社会からは落ちこぼれと判断されてしまう。
数学とはこの手続きを重視した考え方(手続き論)ではなく、それがなぜそうなるのかという本質(本質論)が大事である学問のはずだ。
====
例えばというのは、答えを暗記しているのではなく数式の意味を理解しているかと思う。掛け算であれば「それがいくつかあるか」と言う足し算にも展開できる。先の問題であればだ。
だがこれが負数を使った掛け算ではどう考えるだろうか。
と計算でき答えを出すことが出来ても、これはではない。
これは本質的には、マイナス値同士の掛け算の結果がなぜプラスになるのかということを理解しているかということになる。これが本質であり、「マイナス同士の値をかければプラスになる」と暗記しているのは手続きを覚えているだけに過ぎない。まさに手続き論だろう。
例えば良く使われるトリック的な数式として以下のものが有る。
あなたにはわかるだろうか。
最後で「A+B=B」が「B+B=B」になっているのは、「A=B」と言う前提なのであるから「A」を「B」に置き換えているだけだ。
よって、このBを「1」に置き換えるとすると「2=1」となる。素晴らしい。
この式にはもちろん問題が有るわけだが、その問題に気がつけるかどうかというのが数学を数学として考えることが出来るかということだ。もちろんこれも暗記として覚えたところからでも問題点を見つけられるので、コレが解けたからと言って本質論的な思考が有るわけではない。
およそ学校教育で暗記しただけで自分で考えることをしなかった人間には解けない問題だろう。
これが数学の問題点で、本質と手続きの差になる。
そもそもにと何故そうなるのかを考えたことが有る方も少ないだろう。暗記ではなく「1+1」の答えを求めるには前提が必要になるが、それはペアノの公理など色々な手法で証明することが出来る。
これが数学であり、数学の面白さであり、数学の美しさであり、数学そのものである。