ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

評価なんて相対的。気にするだけ馬鹿。

優秀、劣等と評価され、それに一喜一憂している人がいるが、そんな評価で何が嬉しいのかがわからない。評価なんてその場所、時代で相対的であり、なんの指針にもなり得ない。

例えば私は工業高校時代にプログラミング能力が学年で一番優れていた。私は機械科であったが、情報科も含め1番であった。だが、世間からすればアホ高校であるので、その場所で優秀である事になんの意味もない。
東京大学は日本で一番の難関大学であるらしいが、そこに入学できた事、そこで一番だと誇っている事と何も変わりはない。東京大学で一番だとしても、大学のランクが世界で見るとベスト10にも入らず、ベスト50にギリギリ入る程度なのだから、そこで1番だとしても、日本で見ると、三重県で1番の大学に入ってます!!と誇るよりも馬鹿げている事だ。(日本で一番ランクが低い大学を知らないので勝手に三重とした。失礼。)



東京大学の職員にしても、学長はすごいかもしれないが、そこで雇われている、そこで学んでいる学生の何がすごい事か。

と、大学に対して僻みを言いたいのではなく、評価などそれほど相対的であるのだから、例え日本で一番馬鹿な大学とされている大学で一番成績が悪かったとしても、それで落ち込む必要はないし、優秀とされて喜んでいるのは馬鹿だということを言いたい。

先に書いたように、評価など、その場所、その時代に絶対的なものではなく、その場に応じて相対的になされるものになる。

そんな場所、時代に応じて変わる指標に一喜一憂すること自体が馬鹿の心理であろう。

その場で上位20%程度が優秀と評価され、下位20%が劣等、その間は平凡とされているだけであり、一年後に別の学生が入ってくれば、前年度の学生の下位20%に入るような人間が上位20%に含まれるようなレベルになったとしても、そのグループとして優秀か劣等かに割り振られるだけだ。


例えば小学校の時代には、学校の成績よりも、マラソンのタイムが短いこと、ドッチボールがうまいことが評価され、女子共にモテたかもしれないが、社会に出たら、そんなことどうでも良い。会社で100m走が一番早かったとしても、会社で一番を比較する場すら提供されないし、飲み屋の馬鹿な自慢話にもならない。
だが、小学生にすれば運動ができることはステータス。バスケ部に入ることが評価の対象なのである。


誰かに評価される事に興味がなければ、誰かを評価しようとも思わない。

そんな事を考える事自体が馬鹿のする事。無駄なのだ。

最低。

最低。