ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

署名活動をするクズ

まじであれはどうにかならないかな。署名に参加する人間はクズであるし、署名活動をしている人間は悪人だと思っている。

署名なんてなんの役にも立たないし、署名を提出するということは数の暴力、脅迫だとも感じている。

選挙・投票行動 (社会科学の理論とモデル)

選挙・投票行動 (社会科学の理論とモデル)


あなたは署名に参加したことがあるだろうか?あるとすればどのように参加しただろうか?

自分の意志で、自分の労力を使って、自分の費用を使ってその署名に参加しただろうか?

そのような署名を行ったことがあるかもしれないが、今までに署名した大半が道端で行っている署名運動への署名ではないだろうか。私はあのような署名活動に参加することは「悪」以外の何者でもないと考えている。

その理由は単純で、道端で行っている署名活動など、その問題の「本質」を理解していないままに参加してしまうことになる。署名運動も参加する以上は公開の記名投票と同じで、その案件について「賛成」と投票していることになる。この投票がいかに危ないものか理解して投票を行っているだろうか。


賛否投票であれば、「賛成」の数と「反対」の数からその案件についての同意性がわかるが、署名はこの「賛成」の票しか集めない。どれだけ反対者が居たとしても、その反対の署名活動を行わなければ反対の数は反映されないのだ。

このヤバさはここまで読んでもらえればわかると思うが、署名は数の暴力として提出しているに過ぎない。


本当に心からその案に賛成している人のみが署名しているのであればもちろん問題ない。だが、その署名活動を道端で、主張を横断幕を掲げる程度で、全くなんの説明もないまま信号待ちをしている人たちに名前を記入させる。署名活動を行っている側も「名前を書いていただくだけで結構なので」と声をかけて署名させている姿を何度も見てきた。そんな「記名」の集まりになんの意味があるのだ。


日本人は断るのが苦手というが、署名活動はこの意識に漬け込んで票を集めようとしているだけだ。

署名する側からすれば「名前を書くだけで済むならサッと書いて離れたい」と言う意識があり、さらには署名することで「感謝される」のでその気持ちよさから署名してしまう。署名活動をしている側からすれば「信号待ちの暇な時間に声をかければ署名してもらえる」と言う「手軽さ」から署名活動を行っている。その案について理解してもらおうとなんてこれっぽっちも思っていない。

もしその案について理解してもらい、理解した上で「同意」の証として「署名」してほしいと思っているのであれば、街頭演説だけではなく「説明会」のアナウンスをして説明会に参加してもらおうとするはずだ。街頭で署名して貰うなど、全く「理解」してもらおうとは思っていないからそのようなことが出来るのだ。「署名の数」さえ集めればそれでいいと思っていなければそのようなことが出来るはずがない。


この文章を読む人の中にも署名活動を行っている方がいるかもしれない。そうであれば街頭演説はいいにしても、署名をその場で行わないでほしい。街頭演説の場所から少なくとも500メートルは離れた場所に署名場を作り、そこで署名してもらうようにしてほしい。そうすれば、少なからず自分の意志で「署名したい」と思った方だけが署名しに来るであろう。そうしない理由は、「署名が集まらない」からではないだろうか。

「署名してもらうのに手間をかけて貰うわけにはいかない」という言い訳は通用しない。自分の意志で、自分の労力をかけてまで「賛成」したいと思わない案になど意味はない。もし街頭で署名するのであれば、同時に一口1000円の寄付金でも集めてほしい。その案に賛成しているのであれば1000円程度なら問題なく寄付してくれるだろう。寄付しない人がいるとすれば結局「なんとも思っていない人」にほかならない。

その寄付金をあつめれば、活動に伴う弁護士を雇うなどの費用も捻出できるはずだ。「賛成」している人からの寄付金でその案を通すことが出来るのであれば「賛成」する人は喜んでその費用を捻出してくれるはずである。

選挙・投票行動 (社会科学の理論とモデル)

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投票行動研究のフロンティア (おうふう政治ライブラリー)

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