代案なき批判、反対はするな
つい先日、「代案がなければ反対してはいけないということですか?」と言われた。
当たり前だろ。当然だろ。明々白々だろ。
代案がない批判、反対はいちゃもん、言いがかり、悪口でしかない。なぜ代案が無いのにその意見に反対を呈するのかが私には理解できない。
- 作者: 勝谷誠彦
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2009/07/28
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例えば友達とご飯を食べに行くとしよう。そしてあなたは「今日はとんかつを食べよう」と提案したとする。
そこで友達が「嫌だ」と言ってあなたは理解できるだろうか。「嫌なら何を食べたいか言え」とは思わないだろうか。
いや、「何を食べたいか」まで言う必要はない。「なぜ嫌」なのか言えと思うだろう。
当然だ。あなたが提案したにも関わらず、その意見は否決された。提案が否決されるには、その否決たる理由が必要だろう。その理由は何でも良い。
- お腹が空いていない
- 私はベジタリアンだ
- 今日の昼にとんかつを食べた
- この後にご飯を食べに行く予定がある
- お前と一緒に飯を食うなど御免こうむる
何でもよい。
だが、どの理由であるとしても、それは代案だ。「嫌だ」というのは批判でしか無いが、これらの理由はどれにしてもその後につながる代案足りえる。「お腹が空いていない」、「お前と一緒に飯を食うのは嫌だ」、「この後に予定がある」というのであれば、「とんかつを食べる」のではなく「ご飯を食べに行かない」と言う結果になるし、「私はベジタリアンだ」というのであれば「肉以外」と言う選択肢ができる。「昼にとんかつを食べた」のであれば、それ以外のものであればいいという代案になる。
こんなことがわからないのであろうか。
食事というライトなものでなくても、会社の会議でもおなじだ。何らかのアイデアが出たとし、そのアイデアを否定、批判するということは、否定、批判をした人間には何らかの考えがあるはずだろう。考えがないのに批判していたのであればそれはいちゃもんであることはアホでもわかるはずだ。
考えがあるのであれば、その考えを言えばいい。いや、言わなければならない。考えを言わないのであれば、それはないのと同じだ。「第六感がそう言っている」と言う理由で批判されているよりも酷い。
「代案なき批判をする」と言う意見を持っているのかと思い調べてみると、これは結構多いようだ。だがどれも「批判された代案をみんなで考えれば良い」と言う考えのようだ。アホだ。
なぜそれが批判されたのか考えようがなければ代案など考えられるはずがあるまい。先の例を出せば、「お腹が空いていない」というのが理由であったとして、みんなで「何を食べるか」を考えても解決できるわけがない。「お腹が空いていない」と言う意見を聞けば、喫茶店のような飲み物だけでも入れる場所や、ファミレスのようなドリンクバーがある場所などの意見が出るのだ。
なぜ批判した人間に対してこちらからインタビューをしてその理由を聞き出さなければならないのか。批判、否定をするならその根拠を自ら発しろ。
意見をするのであれば、それは異論や反論を言わなければならない。反対、批判だけをする人間など何の意味もない。単に足を引っ張っているだけだろう。
世の中馬鹿はいるもんだな。