ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

図書館利用法

私は今までに「本は買え」と口酸っぱく書いてきた。「本」と入力すると予測変換候補に表示されるほどの頻度で書いている。

本は図書館なんかで借りて読まないで自分で買えというのは私の持論になる。

だが私は「図書館を使うな」とは言っていない。これは非常によく勘違いされる。現に私は今日も図書館に行って来たし、少なくとも週に二回は図書館に行っている。


図書館に行く主な自習目的になるが、もちろん図書館の本も利用する。

図書館の利点はその膨大な図書だ。どれだけ大きな書店でも紀伊國屋本店でも図書館の蔵書にはかなわない。そして、誰が買うんだというおよそ紀伊國屋でも扱わない書籍が図書館には多くある。また、もちろん古い本も多く、絶版となっている本も一般図書とまじり配架されている。

それらの書籍を堂々と立ち読み、座り読みが出来、まる一日居て何十冊読んだとしても合法なのが図書館だ。こんな素晴らしい場所は他にない。


図書館にいるということはこの膨大な図書が自分の脳の一部になるということだ。調べたいと思うことはすぐに手に取り調べることが出来る。わからないことがあれば更に別の書籍を探すことが出来る。何十冊でもそれを辿ることが出来るのだ。

例えば今日試しでパーソナリティ障害について調べようとすると、パーソナリティー障害の簡単な解説書が30冊ほど配架されている。「無差別殺人と妄想性パーソナリティ障害」という書籍もあれば、学校教師のための書籍もある。それを読み、殺人に興味を持てば「殺人 動機」と調べる。そうすると多種多様な書籍が一覧となるが、そのなかに「14歳からわかる生命倫理」と言う書籍さえも見つかる。そして、教育に興味を持てば「教育学」と調べると200冊弱の書籍が見つかる。医学に興味を持てば「医の倫理」から具体的な手術手法、果ては原始時代に行われていた手術法に至るまで際限なく、制限もなく脳を拡張していくことができる。

図書館は書店と違い親会社の経営的判断や宗教的思想による制限を受けずに本当に多種多様な書籍が並べられている。


このようにドンドンと次々と自分の調べたいことを調べたいままに調べることが出来るのが図書館だ。書籍を買うのと違い、例え1ページでも読むために手元に持ってくることが出来る。例えば私は医の倫理について調べようとした時は20冊ほどを斜め読みをした。

目の前に文字通りの万巻の書が積まれている。その万巻の書を分け隔たりなく調べることが出来る。読むことが出来る。これを利用しない手はない。


では本を買うことと図書館を利用することは何が違うのか。

「読む本は買え」、「調べるなら図書館にけ」と言うのが私の考えだ。

だから「図書館で借りるな」と私は言っているのだ。調べ物をする為に一時的に開く本は買う必要がない。だが、その本の内容を「読みたい」と思うのであれば買うべきだ。今後も参考、引用すると考えたのであれば買うべきだ。それらは手元になければ不便なものになる。


金が無尽蔵に続くのであれば調べるためにでも数十冊と本を購入してもいいが、それを買い、調べ、また書店に行くというのが手間になる。また、無尽蔵に続くのであればそもそも自分で図書館を作ったほうが確実で速い。


私が生涯に収める税金など、私が生涯に利用する図書館の書籍の価格にも満たないだろう。