ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

自由ソフトウェアを叫ぶ馬鹿

私はPCを触り始めてすぐにGNU/LinuxNetBSDを触り始めたので、かれこれユーザ歴は15年ほどになるだろうか。

長く使っていれば何か凄いわけでも深く知っているわけでもないが、その15年のうちにそれがどう使われ、どう変化してきたかは身を持って体験してきた。その間に少なからずいくつかのディストリビューションの開発に参加したり、その中のソフトウェアの開発に参加してきたのである程度開発側にも触れてきたかと思っている。

フリーソフトウェアと自由な社会 ―Richard M. Stallmanエッセイ集

フリーソフトウェアと自由な社会 ―Richard M. Stallmanエッセイ集


私がフリーソフトウェア(以降はあえて自由ソフトウェアと呼ぶ)を使い始めた頃は「こんなに素晴らしい物はない」と心から思ったものだ。人に薦めたいとは思うものの、私以外の人間の用途にそれがマッチしているかどうかがわからない。

「自分の便利は人の不便」だと思っているので、私が便利だと思ったGNU/Linuxが人には不便かもしれない。多くの他人が便利だと使っているWindowsが私にとって不便であったことからも、これは考えるまでもなく身を持って実感していた。

なので私は能動的にGNU/Linuxや*BSDを人に進めようなどとはしなかった。まれに質問されるとそれに答える程度であっただろう。


だが私のまわりにも「自由ソフトウェアを使うべきだ」と声たからかに叫んでいる人たちがいた。フリーソフトウェアの生みの親であるリチャード・ストールマンの考えを推進すべく行動していた人たちだ。その人たちは自由ソフトウェアが普及すべく、普及活動と、ユーザ獲得のためのソフトウェアの制作やサポートを積極的に行っていた。

人の思想というのは「自由」であるので止めることは出来ないし止めるつもりはないが、当時に自由ソフトウェアを一般ユーザが使うことは、あまりに現実的ではなかった。

音楽を聞くにしても、そもそも音を鳴らすにしてもカーネルの再構築が必要になったり、当時流行っていたFlashの再生もなかなか難しい。そんなものを薦めても一般ユーザのニーズがマッチするわけがない。

それを当時の人達は理解していたので、一般ユーザでも使えるようにソフトウェアを作りサポートに尽力していたのだ。

だが一つの事実は、当時の人々は心から自由ソフトウェアを信じ理想的なものとし、自らもそれを使う実践をし、その実践から不便を解消しつつ一般ユーザにも進めていたというものだ。


そして月日は流れ、現在はスマートフォンや家電の中にも自由ソフトウェアが入り込み、当時自由ソフトウェアを推進していた人たちの理想の世界に近づいてきている。

当時から自由ソフトウェアを推進している人たちはこの普及に満足し、さらには自由ソフトウェアと自由でないソフトウェア(以下、不自由ソフトウェアとする)が共存する必要があると言うことを感じ、当時ほど自由ソフトウェアを推進したりはしていない。表立った普及活動はせずに、現在もソフトウェアを書き、サポートをしている姿を稀に見かける。

現在ではリチャード・ストールマンですらも昔に比べてそれらの発言の過激さはなくなっているが、本人はあいかわらずBIOSやハード設計すらも自由なPCを使い自由ソフトウェアの利用を実践している。


だが最近になり、当時は自由ソフトウェアを「使い物にならない」と批判していた人たちが自由ソフトウェアを使い始めた。やっとその魅力に気がついたのか、今になって「自由ソフトウェア以外は使ってはならない」とわけのわからないことを叫び始めている。

当時の人達でも「使うべき」と推奨していたに過ぎないのに、最近に生まれたそのモンスターは「使ってはならない」と叫んでいる。当時のRMSすらも言っていないほど過激なことだ。わけがわからない。


そしてもうひとつ決定的な違いがある。

当時の人達は自由ソフトウェアを自らがそれを使ってアピールしていた。だがモンスターは「不自由ソフトウェアを使ってはならない」と叫んでいるにも関わらず、Ubuntu Linuxを使っていたり、一般のPCを使っていたり、更にはそれをTwitterで叫んだりもしている。

自由ソフトウェアでないものを使い、自由ソフトウェアでないソフトウェアの上で「自由ソフトウェア以外を使ってはならない」とは矛盾も甚だし。


「使ってはならない」としている人がそれらを使ってアピールしていることほど無能で情けないことはない。「車に乗るのを止めましょう」と街宣車でアピールしているようなものだ。アホらしくて仕方がない。

一般ユーザがその姿をみると「自由ソフトウェアだけを使っていないじゃないか」や「結局自由ソフトウェアだけでは使えない」と思い、それに興味を持つことすら無くなり、更には自由ソフトウェアについて批判的になってしまうだろう。

そしてそれらのモンスターは自由ソフトウェアを書いたり、サポートしたりと自由ソフトウェアの発展には何の寄与もしていない。何の貢献もせずに一般ユーザに誤解を与えているだけだ。むしろ普及の邪魔をしているようにしか見得ない。

私達が当時から努力してここまで普及させてきたものを滅茶苦茶にしたいのだろうか。


自由ソフトウェアを推奨するのであれば、自らが見本として自由ソフトウェアを使うべきだ。叫ぶのではなく、普通にそれを使っている姿を見せる事こそが広告なのだ。


こんな馬鹿げた人たちを見て、私は今まで自由ソフトウェアを支えてきた人たちの努力が潰されていくようで残念に思えて仕方がない。