ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

政治について思うこと

昨日に選挙について書いたが、政治について私が思うことを少し書いておきたい。

これはもちろん私の考えであるので、絶対的に反対する方や拒否反応を起こす方もいるかも知れない。だが人それぞれ望むべくものが違うように、政治についても意見、考えが違って当然であろうので、それも政治のあるべき姿として考えてもらいたい。むしろ、国民それぞれがそれを考えることが政治の目的であるし、私がこの記事を書くことの目的である。

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)


昨日の記事にも書いたが、世間の人は政治について表面的に判断し過ぎではないだろうか。

これはパッケージで商品を選ぶようなもので、元来それは見た目ではなく、そのものの中身で確かめるべきものだ。確かに表面的な宣伝は魅力的であるし、その見た目が体を表すべきである。だがしかし、実際はそうではなく誇大的に一つのことについて宣伝されていることも多いことは実感しているだろうし、それらについての注意事項は中の説明書や、パッケージに書かれた小さな注意書きにしか事実はない。

政治もこれと同じで、わかりやすい宣伝文句は声高らかに謳うが、その注意事項は細かな政策にしか書かれていない。また、その根拠としても都合のいいことしか書かれていないし、それは理想的なことでしか無い。それを個々人が調べ判断することでしか客観的な事実は判断できないだろう。もちろん、それを個々人が行うために政策として発表しているので、それを行うのが国民の義務ともいえよう。


政治家が不倫などの女絡みの問題を起こせば、その政治家を糾弾し辞職に追い込もうとする。なぜその政治家は不倫をしたからと言って辞職までする必要があるのだろうか。

女関係と政治力には何の因果関係もない。政治家を交代させていくというのは、簡単には二番や三番の実力を持つ人に政治を任せるのと同じことだ。その実力を評価されて任命されてにもかかわらず、実力とは関係のない事象により辞職させ、実力が評価されなかった人に政治を任せることほど自分たちの首を絞めることはないだろう。日本ではこれが繰り返され、国民と国とで足の引っ張り合いをしているのが現実だ。

「英雄色を好む」というのが現代には受け入れられにくいのはわかるが、どんなことにも精力的に取り組むという姿勢は政治家には必要ではないだろうか(こう言うと女から私も批判されるのであろうが)。


また例えば、戦後ならまだしも、現在は戦争参加者は政治に冷遇されるだろう。これも何故か。

自らの命を捧げてでも国を、国民を、家族を守りたいと考えている人こそ、国の代表としてふさわしい人ではないだろうか。今現代では、国よりも自分の身分、立場、金、家族を守ろうとしている政治家が多いからこそこのような国になったのではないかと私は思っている。

日本とよく比較されるアメリカでは、金持ち(富裕層)の息子は戦争に参加し、前線で戦うというのが伝統であった。後方で安全に指揮を取り命令を下していくのではなく、最前線で兵を束ねて戦いリーダーシップを発揮する。

そして国に帰還できればそのリーダーシップを活かして政治に参加する。これを代々続けてきたという歴史がある。だからこそアメリカの歴史は金持ちが活躍した歴史でもあるのだ。これほど素晴らしいことはないだろう。金持ちは保身的に成るのではなく、その立場を活かそうと命をかけて努力するのだ。

アメリカでは戦争を経験せずに好戦的なことを言う政治家を「チキン・ホーク(臆病なタカ派(タカ派は政治に置いて戦争等武力をじさない思想を持つ集団))」と呼ぶが、アメリカの今はそのチキンホークが上院議員の中に溢れてきている。だからこそ戦争を知らないチキンホークが利益のために戦争をけし掛けてしまうのだ。

2000年の大統領候補でブッシュと争ったマケイン上院議員は戦争の経験者でベトナム戦争に従軍した。そのベトナム戦争では北ベトナム軍の捕虜となり、5年以上の捕虜生活と拷問を受け続け、さらに捕虜が釈放された際も最後まで残り一番最後にアメリカに戻ったという人物にも成る。この拷問で受けた傷により障害を負っている。

だがその経験があるにも関わらずマケインは自信を拷問したベトナムとの国交正常化を成し遂げており、先の911テロの際にもブッシュ政権によるテロ容疑者への拷問にも拷問経験者としてそれを反対した一人である。

もちろんマケインの息子ジミーもこの慣例に習い、海兵隊に所属してイラクに従軍している。海兵隊とは戦時となれば最前線で戦う戦死率が最も高い部隊に成る。

戦争に参加するというのは「人を殺しに行く」と言う面もあるかも知れないが、それだけではなく、イデオロギーや国の違い、文化の違いにとらわれず、弱者や兵にさえ共感できる人間に成ると言う場でもあるのだ。この経験がないからこそ、机上の空論として議論を戦わるチキンホークとなってしまうのだ。

自信が経験したことによりその非人道的行為に反対することが出来るという思考を持つことが出来るのだ。


戦争は歓迎されることではないが、そこで経験した事こそ、国や世間というものを考えるベースに成るのではないだろうか。

こう考えると戦争参加者の政治への参加は望むべきものであるはずだ。

政治とは目先の利益ではなく、深く考えていかなければならない。


女の問題を起こそうと政治能力が優れていれば問題ではないし、戦争参加者の政治への参加も期待すべきものではないだろうか。

もちろんこれに反対する人もいるだろうが、それをきちんと考えて判断し行動して欲しい。

何も考えずに批判しているなたこそが、この国をダメにしているのかもしれない。


自ら進んで戦争に参加している傭兵経験者が立候補したとすれば、あなたはそれをどう考えるだろうか。


一身独立して一国独立す

福沢諭吉のこの言葉がまさに国家、国民の理想的な姿かと思っている。

何でもかんでも政治や社会やマスコミの責任だと騒がず、個々人がそれぞれに考えるべき知恵を持ち、学び、考え、語り、論じ、心身ともに独立しなければ一国の独立はありえず、一国の独立はまたその個人の独立へもつながる。


これは新約聖書の「コリント人へ第一の手紙(13章)」にも現れている。

われ童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり、然れど、かの時には顔を対せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし。

ぜひ人と成り、人として語り、思い、論じて欲しい。参政権はその人としてのあなたに与えられたものなのだ。