ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

バカはバカであるという事

今の今までさ、人をバカにする時に使われている「ゆとり世代」や、自分が好きな曲を「神曲」と称したりすることの認識が私と世間では大きな乖離があったようだ。私は世間には「バカがいる」と言う事を認識し、それを許容し行動してきたつもりである。だがそのバカたちの中には私の想像を遥に超え、想定外の超弩級のバカもいるようだ。

私はそのことに気づけなかった。そのことに気が付けなかったゆえ、現在までの会話の中で完全な「認識の違い」が生まれてきたことがあると気付いた。これは私の責任だ。バカは別に悪くはない。バカはバカだ。それを許容し認識しきれなかった私自体が愚かであったのだ。

バカの国 ~国民がバカだと国家もバカになる~

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ゆとり世代というバカ

30代のおっさんが20代や10代の若者に「ゆとり世代」といちゃもんをつけるのを、私はそれを「自虐的」な意味を込めて発しているのかと思っていた。だがそれは完全に間違っていた。「職場にゆとり世代が来たら、どう対処すれば良いの?」を読むと、「ゆとり世代」と発するのは心から「若者」をバカにして発しているようだ。

これには正直驚いた。私はそれを「自虐的」に「自分もゆとり世代だが、色々なゆとり世代がいる」と言う意味を込めて言っているのかと思っていた。この「ゆとり世代」と言う言葉を発している人たちは「ゆとり教育」というものがどういうものか分かっているのであろうか?いや、申し訳ない。どういうものかわかっていたら勘違いはおきないし、人をバカにするために使う言葉ではないという事は分かっているはずだ。

ゆとり教育」がなにかわかっていないからこそ、人をバカにすることを使っているのだ。私からすると、このことこそがあなた達の言うところの「ゆとり教育」の弊害としか思えない。自分で調べることもせず、意味も分からずに知ったかぶりをする。自分の行動に自分で責任を取らず、全て人のせいにする。馬鹿らしい。

ゆとり世代」とバカにしている人は何歳なのであろうか?ゆとり教育は段階的に変化はしているものの1980年から始まっている。1964年生まれが1980年に中学卒業にあたるため、1965年以降に生まれている人はすくなからずゆとり教育には関わっている。1968年生まれの人は少なくとも中学3年間を「ゆとり世代」として過ごしているのだ。と言う事は、この「ゆとり世代」と人をバカにすることが出来るのはすくなくとも1968年以前に生まれた人に当てはまる。

1968年生まれは現在では46歳となり加齢臭がシトトンに溢れ出している年頃だ。枕も臭い。その枕も臭い人間なら新卒に対して「ゆとり世代」と言う権利があるのだが、その世代の人間が若者に対して「ゆとり世代」というと、その応酬として「老害」と言う言葉が返ってくること間違いなしだ。だがそのくらいの歳の人間から「ゆとり世代」と言う言葉を聞いたことはない。それはゆとり教育についてきちんとした認識を持っているのか、それとも「言う意味がない」と考えているのかはわからない。だがその言葉を私は聞いたことがないのは実際になる。

ゆとり世代」と言っている人間は間違いなく「ゆとり教育」を受けた世代であり、それを証拠に「ゆとり教育」が何か認識できていないのだ。意味も分からず、調べず、自分の状況も理解していない。これが本来の言うところの「ゆとり教育の弊害」なのかも知れない。

神曲

稀にアニメソングやAKBの歌に対して「神曲」というのを耳にしたし、「パーケンももクロの“神”だ」と言う言葉を目にしたことがある。私はこれを対象についてバカにしているのかと思っていた。だが、アニメのファンがアニメソングに対して「神曲」とバカにする理由も、ももクロ好きのパーケンをバカにする理由も見つからない。

あ、ちなみに「神曲」は「かみきょく」ですよ。教養のある方は「しんきょく」とダンテの方を思うかも知れませんがそれは全く関係ないです。それを知らないようなバカな人間の話です。

まずこの言葉を「対象をバカにする言葉」として思い込んでいた理由がある。世間には私のような神道信仰者や仏教信仰者ではなく「無宗教者」と呼ばれる、神道でいうところの「神」を信じず、その存在を批判し、「神」をバカに、冒涜するような人間が多いということからになる。その「神」をバカにしている人間が、対象に「神曲」や「神」とレッテルを張る理由としては「バカにする」以外に感じられなかったからになる。

「神」をバカにしている人間が、自分が賛美する対象に対して「神」の呼称を与える理由は思いつかず、これは私の想像を遥に超えた行動であった。私は神道信仰者なのでバカにするわけではないが例えのために言うと、神を冒涜している人々には神を「うんこ」と言う人達もいる。確かにうんこには「波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神」の二神が立っているが、この例はその知識を持たない人たちへの例えなので神の話ではなく、排泄物のような見にくい存在であるというバカにした存在としての「うんこ」である。

神をバカにしており、神をうんこに例えるような人間が賛美する曲を「神曲」と例えるのは、言い換えれば「うんこ曲」と言っているようなもので、それはどのように考えても対象を賛美している言葉には感じられない。「うんこのように生態系や新陳代謝、循環の中には必ず必要でその曲もそれくらい私にとっては絶対的に必要な存在」とした例えであればまだしも、そのような崇高な意味はないだろう。

本当にこの考えには参る。一方の考えではバカにし、もう一方では同じ対象物に対して最高の評価に与える呼称として使う。この発想をしている人たちはどのように考え生活しているのか悩む。これを理解できるようになれば私は「バカ」と呼ばれる人たちの思考が理解できるようになるのかと思う。

情弱

ついでに書いておくと、2ちゃんねるで使われている言葉の大半は本来の意味や解釈と異なる使われ方をしている。故に2ちゃんねるのユーザたちは世間とは離れた考え方に陥ってしまっているのかと思う。同じニュースを見たとしても世間と違う認識をしたのであればその乖離は広がっていく一方になる。これはこの節で紹介する「情弱」と言う言葉以外にも先に説明した「ゆとり世代」も同じだ。私は2ちゃんねるを見ないのでわからないが、「神曲」も2ちゃんねるで使われている言葉なのかも知れない。

「情弱」とは「情報弱者」を略した言葉のようである。その言葉を使っている人の意味の認識としては「調べたらわかることを調べない頭の弱い人達」と言う事らしい。これは過去に幾人かに確認したので少なからず2ちゃんねるでは通用している概念なのかと思う。

だが「情報弱者」の本来の意味はもちろんそんな馬鹿げたものではない。情報弱者とは情報格差から見た「インターネットやテレビなどの情報通信の利用に難があり、その情報に享受できない人たち」のことを示す。この意味は検索すればすぐに出てくるであろうし、ニュースなどを見ていれば本来の意味でなければ意味が噛み合わずに理解できない事で自分の認識が誤っていることに気がつけるかと思う。

だがこの言葉を使っている人たちはそれをせず、誤った認識のままにその言葉を使っている。こういった人たちはあなた達の言うところの意味の「情弱」であることは確かだ。調べればわかるものを調べない。



このように、私は色々な人と話す中で色々な勘違いをしていることが最近にドンドンと理解できた。苫米地英人が「バカがバカであることに気づくことが出来なかった」と言っていたが、私もこれに非常に同意できたことを思い出す。



わがまま世代の僕から愛を込めて。

認知科学への招待

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