ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

人は生まれながらにして不平等

「人は生まれながらにして平等」

これほど不条理な言葉はないのではないだろうか。本心からそう思っているのだろうか。

まず国によって、環境によって生まれてきた時点で人類は不平等であろう。天皇陛下の子として生まれてくることはこの上なき幸せであるが、それは将来について色々な選択肢を失うことを意味する。逆に天皇家以外の子は天皇になるという未来はない。

日本に置いても東京で生まれることと五島に生まれることでは成長において選択肢は別れ、これは地域が広がるほどに差が大きい。アフリカの貧困地域で生まれることと中東の産油国で生まれることとでは幼少期の生活において全く異なる環境になる。

これは避けがたい生まれながらの差だ。その差は将来的に埋めることも出来るかも知れないが、それは「教育の格差」によって現実的ではない。ヒエラルキーにおいてはどれだけ学があってもその国ではどうしようも突破できない身分という壁がある。

だが私が言っている「不条理」はこんな根本的なことではない。

平等社会

平等社会


平等、平等と言っている人に限って大抵は恵まれて生まれてきた人たちではないだろうか。簡単に言えば大学に行けるような恵まれた人たちだろう。

少なくとも、生まれてきた家庭の親父が浪費癖で生まれながらにして将来一億近い借金を返済するという未来が待っていた私のような家庭ではないだろう。

そのように生まれながらにして不平等な環境に育った人間は「平等」と言うことを感じることがない。

幼少期に同級生がゲームや玩具を買い与えられている所で私は粗大ごみの日に「あそこに玩具が捨ててあった」と言う母親からの情報に胸を踊らしゴミを拾いに行った。同級生が見ている人気のテレビ番組がやっている時間は電気代がかかると寝かされていた。同級生が清潔な服を着ておしゃれを気取っている時に私は同じく拾ってきた服を着ていた。同級生が家でご飯を食べている時間も給食以外に食べるものはなかった。同級生な幸せな家庭で温かい生活をしている時、喧嘩ばかりしている家庭の中で目の前で親のセックスを見せつけられて生きてきた。

これがこの日本においての現実だ。これでも雨風のしのげる場所で育つことが出来たというのは幸せなことだろう。それすら出来ない子どもたちは今もいる。


このように生きてきたものは「平等」と言う意味を知らない。それを知っているのは何不自由なく裕福に暮らし、そんなことを考えるほどの余裕がある人間たちだけだろう。現に私はこのように「平等」であるということを知らない。それを得たことがないからだ。

そもそもに恵まれた家庭で生まれた人々は、私達のような貧困家庭の現実を知らないだろう。明日食べるものがないと言う家庭のことを知らないのだろう。


もし本当に「平等であれ」と思うのであれば、親から得た遺産を全て寄付して欲しい。そうすれば貧しい人たちの底上げになるだろう。そして、あなたの財産も全て子に遺産として残さずに寄付して欲しい。自分の財産を子に与えない、子育てにも年収120万円の家庭が出来るだけのものしか使わないようにして欲しい。あなたが得た財産はあなたのものだが、その財産をあなたの子に使うということはその時点で「子」は生まれながらにして平等にならないのだ。

日本において相続税を100%にすれば税金は全てかからないというくらいに日本には莫大な遺産の相続が起こっている。それを全て一部の恵まれた子たちが甘受し、一部の恵まれない子は今食べるものもないほどに困っているのだ。

あなたが今住んでいるその家もすぐに手放し寄付し、それまでに住んでいた家賃に換算して現金として寄付する。大学や高校、塾の学費、親から貰った小遣い、今までに甘受した全てを寄付するのだ。子がいるのであれば既に与えた財産を全て没収して欲しい。


最低限、それらをした上で「平等あれ」と言って欲しい。それをせずに平等と言うなどおかしな話ではないか。自らがその裕福な家庭にいるということが、その下の人間たちからしたら不平等になるのだ。

平等とはそういった人たちが底上げすべくものではなく、そういった人たちが自らの生活環境を下げていくことでしか到達しえないことなのだ。