ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

なぜ食べ物を粗末にしてはいけないの?

「食べ物を粗末にしてはいけない」とよく聞く。理由がわからない。なぜダメなのか。

今までにこの言葉を発したことがある方がいればコメントしてほしい。なぜ食べ物を粗末にしてはいけないのか。

聞いてみると、「食べ物がもったいない」、「命を食べているので残すのは申し訳ない」、「世界には食べたくても食べられない人がいる」と言う理由のようだ。本当に、心から、全く、意味がわからない。


「もったいない」という理由からであれば、「食べ物」に限定せず、あなたが捨ててきた服など全てのゴミと同一のはずだ。服もまだ着れる状態であるにも関わらず捨ててきたのではないだろうか。それは食べれるものを捨てることと同義だ。


「命を食べている」というのも意味がわからない。食卓に並んでいるのはもう既に死んでいるものだ。死んだものをどうしようと、殺された側からすれば関係ない。残さず食べられようが、残されようが、それで遊ばれようが関係がない。あなたは「食べるから死んでくれ」と殺されるのと、「解剖のために死んでくれ」というのに「死」と言う価値観は変わるのだろうか。結局殺されるのには代わりはない。


「世界には食べたくても食べられない人がいる」。そんなこと知ったことではない、なんの関係があるのか。私が今目の前にあるものを残さず食べることで、その飢えている人の腹が満たされるのか。あなたはなぜ「世界には電気を使いたくても使えない人がいる」にもかかわらず、このブログを読むために、娯楽のために電気を利用しているのか。「水が飲めない人がいる」がいるにも関わらず洗濯や風呂、トイレに水を使うのか。


これらについて答えてほしい。「食べ物を粗末にしてはいけない」と言ってきたのであれば。


「粗末にするな」と合わせて「食べ物で遊ぶな」と言う人もいるようだ。更に意味がわからない。なぜ食べ物で遊んではいけないのか。こちらもコメントをほしい。

「食べ物」とは所詮人が決めた物に他ならない。人も十人十色、全員で食べ物の定義が異なる。日本人の多くはセミを食べないが、世界で見ればセミを食べる地域もあるし、日本人でもセミを食べる人はいる。セミ取りは食べ物で遊んでいるのか?また、花を摘んで花瓶に挿したり、冠を作ったことがある人もいるだろう。タンポポは食べられるし、草原に行けばノビルなどを踏みつぶしているがノビルは食べられる。

食べ物で遊んではいけない、粗末にしてはいけないのであればなぜそれらを許容しているのか。


そもそも食べ物で遊んではいけないのであれば、米から作られた玩具など、穀物から多くの玩具が作られるし、ゴム製品には食物由来の澱粉がまぶされている。バイオエタノールはとうもろこしから燃料として作られる。

世間ではそこら中に食べ物を「食べ物以外の使い道」で使っているがそれは問題にならないのか。


そして、「食べ物を粗末にするな」と言っている大半の人が粗末にしていることを目撃している。「食べ物を残すな」という割に、台所のゴミ箱には大根の葉や皮が捨てられている。これらは食べられるものだ。

私はスープを飲む時に皿に残ったスープをねぶるのだが、これをすると「意地汚い」と注意される。これは皿に残っているスープがもったいないからの行動だが、その「粗末にしない行動」は「意地汚い」と言われる。全く矛盾する考えだ。食べ物を残すな、粗末にするなというのであれば皿をねぶる行為が当然の行為ではないか。そう言っている当人が皿をねぶらないことが食べ物を粗末にしている行動になる。


テレビのバラエティ番組で、食べ物を粗末にしているシーンがあればクレームの電話やメールが大量に届くという。だが、ドラマや映画ではそれが届かない。この違いはなにか。

結局これも先の「不謹慎」と同じように自己満足ではないだろうか。

神々の食べ物 ― 聖なる栄養とは何か

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