ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

嫌なら見るな と言うバカ。ほんとにバカ。

「嫌なら見るな」と言うバカが本当にいるのかと驚愕。いや、これは世間で言うところのブーメランだろ。

以前に「バカはバカであるという事」を書いたが、本当にバカはバカだと思う。

確かに「嫌なら見るな」というのは一見正論にみえる。だがこの言葉が正論として通用する場面は限られている。

バカの壁 (新潮新書)

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私がこの言葉を目にしたのは、YouTubeの動画のコメントでその動画を批判しているコメントについた返信であった。

その動画はコメディ動画であったのだが、単純にその動画が面白くなかったのか、出演者が嫌いなのか、出演者の女だけが好きなのかはわからないが、「おもしろくない」、「何が面白いんだ」、「気持ち悪い」と言うコメントが全体の1割ほどを占めていた。そしてそれらのコメントに対して「イヤなら見るな」という返信(コメント)が付けられていた。


バカはこれが正論だと思うのだろうか。

この返信をした者の心理はわからないが、「嫌なら見るな」という内容から判断し、そのコメント投稿者は「おもしろくない」というコメント者に対して、「この動画を見ることが嫌なのであろう」と判断したのであろう。そして、そのコメントを見ること、目に付くことが嫌だと思い「嫌なら見るな」とコメントしたと判断できる。

「嫌なら見るな」ではなく、「気に召さないなら見なければいいのではないですか」という風に丁寧長にしても同様だ。「それが気に食わないなら見なければいい」と提案しつつも、その自分が気に入らなかったコメントを見て「嫌なら見るな」とコメントしている。それを正論と思うのであれば、その気に入らないコメントを見なければいいだけだ。

その自分が気に入らないコメントを見て「嫌なら見るな」とコメントする。これは完全な自己矛盾だ。嫌なものに対して積極的に自分から接触している。


嫌なら見るなと言う言葉は大体に置いて通用しない。多くは加害者が使う言葉でもある。

「嫌なら見るな」と言う言葉を使うものは、その言葉がどのような場面にでも当てはまると勘違いしているのではないだろうか。私は数年前まで頻繁にカツアゲの場面を目撃した。私はそれを止めに入るのだが、他の大勢の歩行者はそれを見てみぬふりし、見えていないこと、自分は知らなかったことにする。

「嫌なら見るな」というのはまさにこの加害者の立場での考え方だ。かつあげしているのが気に食わないのであれば、見なかったことにして通りすぎればいい。このような考え方だ。


実生活ではその「嫌」なことでも見ていかなければならない。反応していかなければならない。逆に言えば「嫌」だからこそそれについて反応し、それを改善する努力をしていかなければならない。

会社が不正なことをしていたらそれを改善する努力をしなければならない。不正を行っている社員からすれば「嫌なら見るな。知らないほうが幸せだ。」と思っているのかもしれない。だがその不正を見てみぬふりするというのは自分も加害者になる。不正があればそれを注意し、不適切であればそれを改善する努力をしていかなければならない。「嫌だから見なかったことにする」では何も変わらず、悪化していくだけになる。


テレビで言えば岡村隆志が「嫌なら見るな」と言ったようだが、これも正しいようで誤っている。誤っているようで正しい。確かにテレビは複数のチャンネルがあり、気に食わない番組があれば見なければいいだけだ。他の自分の興味がある番組を見ればいい。自分の見たい番組が放送されていないからといって「俺の好きな番組を放送しろ」と言うのはおかしな要求だ。だからこの点に置いては「嫌なら見なければいい。他のチャンネル、自分が好きな放送を見ればいい。」というのは至って正論だ。複数の選択肢の中から、それを選ぶ権利も、それを選ばない権利もあなたにはある。

だが逆には、テレビ番組で不正が行われていたらそれに対する改善要求をする権利がある。例えば動物を虐待している放送があれば、「嫌だから見ない」ではなく、それについて指摘し改善を要求しなければならい。そして、テレビ局もその要望を排除しようとしているわけではなく、視聴者からのコメントは以後の番組作りの参考や、視聴率の上がる番組づくりの参考になる為に「意見」として受け付けている。これについては「嫌なら見るな」は通用しない。


そして、この岡村隆志の発言を批判している連中がいるがそれは大きな間違いだ。この発言を拡大解釈してか「テレビで利用している電波は公共財産で免許制だから望まないものを流すな」と言う意見があるようだ。これは完全な誤りである。

その書き込みはインターネットでよく見るが、インターネットも公共財産だ。公共財産に気に入らないものを流してほしくないのであれば、当事者も他の人間が気に入らないコメントを流してはならない。これもまさに自己矛盾だ。確かにテレビで不適切な番組を流すことは望まれないことだ。だがそれはテレビ局の自主規制や民放連の基準、さらにはBPOと言った第三者機関のようなもので己の是を判断するように作用している。このチェック体制の中から放送を継続しているのだ。

テレビは公共物とはいいつつ免許制であるため、その気になれば一定の事業体にすることで免許を取得することが出来る。もしあなたがテレビ局をバカにするのであれば、あなたがあなたの望むテレビ局を開業する権利もある。だがあなたは行動せずに批判しているだけということを考えなければならない。

この岡村隆志の発言の真意は私にはわからない。


確かにYouTubeのコメントで「面白くない」や「何が面白いんだ」と言うコメントをしている人は、何を目的にそのコメントをしているのかは私には理解できない。だがしかし、そのコメントに対して「嫌なら見るな」と言うコメントも同じように何を目的としているかがわからない。

コメント者はその批判コメントを楽しみにしているのかもしれない、相手をしてもらえることが嬉しいのかもしれない。そして、反応されることでコメントが膨らんでいくことが嬉しいのかもしれない。このように何を目的にしているのかはわからないが、あなたがそのコメントに反応することでそのコメントへの注目度は必然的に上がってしまう。気にいなれなければマイナス評価だけをして表示されないようにすることだけでいいのではないか。



何?この記事の内容に誤りがあるって?そんなことは知らない。気に入らなければ見なければいい。

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