ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

言葉は共通認識ではない

バカはバカであるという事」の記事を「バカを装うこともあるという事」で言及してもらっていた。

その記事を読んで思ったのは、やはり人に物事を伝えるのは難しいということ。

私は人にいろいろなことを話しているため、それらを何度も別人に話すのは時間の無駄だと思ったことと、インターネット上で公開しておけば誰かが読んで感想がもらえるのではないかと言う思いから暇々に記事を書いている。その感想が来てうれしい。

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そして言及いただいた記事にある、「言葉なんてただのツールでしかありません。意味と意思さえ通じればボディーランゲージでもなんでも良いのです。」というのが私が思うところの真でもある。これはタイトルの「バカを装う」と関連することではないと感じるが、言葉とは「何かを伝える」というのが目的であり、どのような言葉であったとして相手にそれが伝われば問題はないと私も考えている。


例えば私は父親との会話の中で「死ね」や「殺すぞ」と連呼しておりそれが周囲から「怖い」と言う印象を受けているようだが、それは私と父親の中では日常会話である。それは双方間の認識として「本心として殺す」と考えているわけではなく、「こんにちわ。今日もいい天気だね。」程度の意味しか持ちあわない。

これは私と父親という関係と、その言葉の意味をお互いに認識しているからこそ通用する言葉であり、私が通りすがりの人間に「殺すぞ」と言ってしまえば私はこのブログ記事を書くことは出来ず、今現在は封筒の糊付けをしている真っ最中になるかと思う。

それと同様に、日本語に詳しく、多様な日本語の言い回しを知っていたとし、それら全ての知識を活用したとしても、日本語を理解できないドイツ人には意味がないのと同じである。言葉はどんな言い回しでも相手に伝わらなければ意味がない。逆に意味さえ伝われば言葉でなくても問題はない。フリスビーを投げたら取ってくる犬は、飼い主との間でその認識が成り立っているからになる。


だからこそ私は誤解が起きないように本来の意味を知ることが大事だと考えている。

例えば「適当」という言葉がある。本来としてこれは「うまく当てはまる」と漢字を見てそのままの意味だが、現在では「なげやり」や「おざなり」という意味で使われるようになっている。だがこれは全ての人間がその意味で使っているわけではなく、本来の意味と通用している意味が異なる結果になってしまっている。

だからこそ両方の意味を知らなければ相手の言っていることが理解できないという結果になってしまう。かく言う私も「プレゼントは適当に選んどいて」と伝えた際に「ひどいね」と返されてその意味があることを知ったという過去がある。


これはある意味では私が「おざなり」という意味でも使われるということを知らなかったことが原因であり、逆には聞き手が「適切な」という意味があることを知らなかったために勘違いが起きたことが原因になる。

だがここで問題になるのは、その「適当」という言葉の意味を「何を基準に」とるかということである。以前に「「普通」は共通認識じゃないぞ」を書いたが、自分の「思考」や「普通」は他人とは全く異なる。親でもそれは同じことである。

だからこそそれを共通項として認識するために本来の意味を最低限理解しておく必要があるのではないだろうか。だがここでも厄介になるのは、その「本来の意味」とはなにから取得するかということになる。多くの場合は辞書から取得すると共通認識として理解が行えるが、結局はその辞書も出版社、編集者、著者の偏見の集まりである。それらも決して共通認識ではない。


そしてここまでの内容からは、「普通」や「言葉の意味」は聞き手や話し手、時期や場所に応じても変わるということになる。では何を基準にするかを考えると、言葉の意味を「相手がどう理解するか」ということを考え、相手に合わせて物事を伝えるしかない。

前出記事の「ゆとり世代」、「神曲」、「情弱」というのも、その言葉の意味が伝わる間柄であれば問題はない。だが私はそれら全てにおいて話し手の伝えたい意味を理解できなかったという事実がある。そしてそれらについては話し手が本来の意味を理解しておらず、その言葉の選択も間違っているのではないかという理由から例文として選択したまでになる。

これは「相手に意味が伝わらない」という問題ではなく、「単語選択」が間違っているのではないかという話になる。先にも書いたように「神曲」というのは神を信仰していない人間からすれば全く意味のない称号だ。

ゆとり世代」に関してはさらにややこしい。もしその言葉を今までに使ったことがあるとすれば、そのゆとり世代の「年齢幅」を考えてほしい。きっとあなたが考えた年齢幅と、あなたが話した相手が考えた年齢幅は異なるはずだ。それがその「ゆとり世代」という「年齢幅」のゆらぎで、認識が共通ではないことを表している。「ゆとり世代」を共通の認識とさせるには学習指導要領をベースとした、法律で定められた本来の意味の1980年からと考えるしか方法は無い。

あなたが「ゆとり世代」とは「1980年以降に生まれた人」と定義し広めようとしたとしても、1980年に生まれた人からは「なぜ俺から」という反発があり、さらには現在の学生は学習指導要領の変更からそのゆとり教育について否定をするはずだ。認識の共通化は非常に難しい問題になる。

そしてその学習指導要領を用いなければ「ゆとり教育」自体が何かという共通認識も出来ないはずである。あなたは「ゆとり教育」をどのようなものと考えているだろうか。


言葉は可変性のある道具である以上それを共通化させることは出来ない。例えば「かゆい」という単語がどれほどの痒さなのか共通化出来ないように。

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