本にカバーをつける馬鹿
馬鹿とは言い過ぎかも知れないが、本にカバーをつけてる人ってなんなのだろう。書店で本を買うと毎回「カバーはお付けしますか?」と聞かれる。
もちろん返事は「いらないです」だ。
「買い物袋は要りませんカード」がスーパーのレジにあるように、「カバーは要りませんカード」を書店のレジに設置してほしいと切に願う。先手必勝で「カバー要らないです」と言った時に相手が返事に困ったという経験があるので、それ以来には日本人の「言わない美学」を実践して聞かれてから答えるようにしているが面倒くさい。相手としても手間だろう。
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私が言いたいのはそんな手間のことではない。「本になぜカバーをつけるのか?」ということだ。
いや、コレには語弊がある。ペーパーバック版以外の本には最初からカバーが付いている。その上になぜカバーをするのか。カバーをカバーするカバーなんていかに馬鹿らしいことだろうか。これは中身を収納して守るための鞄を鞄に入れて持ち歩いているようなものではないか。自転車カバーの上にさらにカバーをするようなものではないか。
たまに革製品のショップを見ると、革製の新書や文庫本カバーすら存在する。何がしたいんだ。しかもそのカバーはかなりの高級品だ。一万円以上する。何のためのカバーなのか本当に教えて欲しい。
そして実際にカバーをつけている人に聞いたことがある。その返事は以下のようなものであった。
- 本を綺麗にしておきたい
- 何を読んでいるか知られたくない
いかにも日本人らしい返事だろうか。特に一つ目の解答など典型的な日本人だろう。
私はいくらかの間売り子として働いていたことがある。その時の経験から日本人は「外箱の綺麗さ」を求めているのだとわかった。中古のパソコンを売るときにでも、純正の箱があるのと無いのとでは値段が違うし、外箱の綺麗さでも値段が違う。
箱というのは運搬中に中身を保護するためのものだ。いうなれば「外箱は傷つくためにある」のだ。外箱が傷つき中身を守るのがそれが役割だ。車でも車が変形して中身を守るだろう。あれと同じだ。
だから外箱の綺麗さなどどうでも良いではないだろうか。外箱など購入して自宅までの運搬が終わればゴミだ。そのゴミになぜ対価を払うのだろうか。中古パソコン屋では外箱が無いパソコンでも持ち帰るようにエアキャップなどで梱包する。それで十分であるのになぜ外箱を重要視するのだろうか。酷い時は、外箱の周りをエアキャップでくるむように言われる時もある。「梱包料がかかる」と言ってもそれでもいいからくるんでくれという始末だ。
通販になると、外箱付きのパソコンを発送する際に、外箱に直接ラベルを貼るとクレームが来る。半数以上の割合で来るだろう。だから「外箱付きのものを箱に入れる場合は梱包料がかかる」とすると、それでもその指定が多くされる。それを不満に思う人はそれについてもクレームを出してくる。
スーパーなんかでも手前の商品を取らずに奥の商品をわざわざ取り出す人間もいるし、平積みの書籍は上から二冊目や三冊目を取るという方もいる。そしてそれが汚れないようにカバーをする。
なぜ本を綺麗な状態にしておきたいのだろうか。綺麗な方が良いのは理解できる。だが、それをすることによって本は非常に読みづらい。
私はカバーを外して本を読む。本を読む方ならわかるかと思うが、カバーが滑って邪魔になるからだ。読んでいる最中にも邪魔になるし、しばらく読んでいるとカバーで滑り書籍がずり落ちてくる。日本の書籍にペーパーバック版がすくなくカバーがあるのは再販制度の為であるので、購入した後の書籍はカバーを外して読むべきだ。
綺麗にしておくために、その対象の目的である「読む」と言う行為が阻害されるのは本末転倒ではないか。特に革製の高級カバーはカバー自体が汚れないように手間を掛けている。アホらしい。
そもそもにカバーを外して読めばカバーが汚れることもない。読み終わったあとにカバーをつけて本棚にしまっておけばカバーは新品の状態のままだ。何度読んでも見た目は綺麗であろう。
カバーを外せば大概の場合は表紙の絵などがない状態にもなるので2つ目の理由の防止にもなるだろう。
そもそもに「何を読んでいるか知られたくない」のであれば外で本を読むべきではないではないか。カバーを隠しても隣から覗かれれば何を読んでいるのかすぐにわかる。そもそも隠して読んでいると言う方が馬鹿らしいではないか。
その目的である「何かわからないようにする」というのも本を読む際に不便になる。鞄にそれ一冊しかなければ良いが、数冊あればどれかわからなくなる。一々中身を開いて確認するのだろうか。私は常に5冊から10冊ほどの書籍を持ち歩いているのでそれは非常に大変なことになるし、革のカバーを10個も買う余剰資産はない。
このどちらの理由にしてもわかるのは「あまり本を読まない人であろう」ということだ。あまり本を読まないので一冊一冊が綺麗なほうがよく、そして読んでいる本が恥ずかしいと思うのではなかろうか。
本を多く読む人は中古の本も多量に買っているだろう。最近の本を安く買うための中古ではなく、古い本を読むための中古だ。例えば夏目漱石なんかでも全集などは昭和の中旬に出ているものが多い。それらの時期に夏目漱石の研究書籍も多く現在では手に入らない。
それらの中古は半世紀以上経っている物も珍しくなく綺麗とは決して言えない。多くの書籍の保存状態は良くなく小口にはカビの跡などが付いている。それらを読んでいれば書店の立ち読み後の本だろうが気にならない。むしろ私は後に続く人のためにあえて開きぐせのついた書籍を手に取る。
そうすれば一冊だけが常に立ち読みされることはないし、私が読む際にも癖がついていれば開きやすい。
私も一時期カバーをつけて読んでいたことがある。カバーをつけている方が読みやすいのかと疑問に思ったからだ。だが実際は違った。5000円程度の安めのカバーにはなるが、これなら1万円程度の革のカバーでも変わらずに読みづらい妥当との結論に至った。そのためにこのようにカバーをつけている人をアホかと想っている。
例えば図書館で借りた書籍など、借り物の書籍を汚さないためにというのなら理由もわかる。そうすれば少しでも鞄の中の擦れなどが軽減されるだろう。だがカバーをつけても小口は裸なので結局表紙程度しか守ることは出来ない。
その1万円のカバーをつけるのであれば新書なら10冊以上購入することが出来る。綺麗に保存しておくことなんかよりも、多くの書籍を自分の知識にすることが読書の目的だろう。
私のように本を実用としているかが少ないのだろうか。私は1000ページを超えるような書籍は切り刻むことがある。1000ページ本は持ち歩き外で読むことは出来ないが、章単位で切れば薄く持ち歩くことが出来る。1万円を超えるような書籍だろうとなんだろうと本は読むためにあるのだ。それを切ることが「もったいない」と思うこと自体が目的とする「読書」と言うものがなにかわかっていないのではないだろうか。
さぁ、本を切ろう。