ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

YouTubeを見るなら権利を語るな

本当に世間の人はYouTubeをよく見ている。何かの話をしているとYouTubeのリンクが送られてくることも頻繁にある。

だが思うのはYouTubeを見るのであれば権利を語るな、行使するなと言うこと。私からすればYouTubeを見ている人間の著作権は守る必要がない。なぜなら自分が人の著作権を進んで犯しているのだから、他人の権利を守らない人間の権利など守る必要があるのかということだ。

死刑賛成派の多くは「人の生命を奪った人間の生命は奪う権利がある」、「人権を犯した人間に人権はない」という理由からで、著作権についてもこれと同じことが言えるだろう。

例えば私もYouTubeは見るが、それは権利者が公式に配布しているものだけだ。先に書いたようにリンクを送られてきたとしても、閲覧する前に「公式ものかどうか」を確認するし、確認できなかったとすると自分で調べて不明であれば見ない。

自分の権利を主張するのであれば他人の権利を守る。コレが基本だろう。

権利のための闘争 (岩波文庫)

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情報社会の法と倫理 (放送大学教材)

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YouTubeを開くととにかく著作権を無視した動画が多く表示される。公式配布物しか見ない私でも違法アップロード動画が表示されるのだから、万人に共通してこのような状態だろう。

もし本当にそれが違法アップロードされたものと知らずに閲覧しているのであれば仕方ないことだろう。だが多くの人間、90%以上の人間はそれが違法にアップロードされたものだと理解して閲覧している。

例えば私の知り合いのプログラマにしても100%の人間が違法アップロードされた動画を見ている。日々著作権を語り、著作権に注意し、著作権を行使している人間たちが、YouTubeに至っては他人の著作権を犯すことを望んでいる。自分で違法アップロードをしないまでも「誰かアップロードしてくれないかな」と期待しているのだ。そしてそれが削除されれば不満を漏らす。

自分の制作するコードにはGPLなコードが混じらないように、著作者不明のコードが紛れ込まないようにと細心の注意を払っている人たちがそのような状態だ。こうであれば、他の業種の人などは同じように何も気にすることもなく閲覧しているだろう。



YouTubeを見るのであれば自分の著作権が侵されようが、どのような権利を侵されようが文句を言わない覚悟はあるのだろうか。それは自分が他人にしていることだ。自分の会社で作っているものが違法コピーされようとどうも思わないのだろうか。

自分がされて困る、されることを望まない、されたくないことは自分もしないのが基本だろう。小さな頃に親から教わった「自分がやられて嫌なコトは人にしない」と言う基本的なことだ。しかもそれが法律で守られていることであれば尚更だろう。

今この瞬間からYouTubeを見るのであれば、あなたはその覚悟を持って欲しい。

これはYouTubeだろが、ニコニコ動画だろうが、2ちゃんねるだろうが同じことだ。



日々「退職する権利」だ、「休む権利」だ、「知る権利」だと権利を主張している連中が人の権利を犯している。

人の権利を犯している連中が権利について語るな、権利を主張するな。