ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

天才だの奇跡だの人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ

世間ではよく優れた人に対して「天才」、高難易度な事象を解決することを「奇跡」と呼ぶのを目にする。

あんまり人を馬鹿にするもんじゃない。そこまで人を馬鹿にして楽しいのかと怒りを感じてしまう。

それは天才でも奇跡でも何でもない。本人の努力の結果だ。

本人が努力し、それを得ることが出来た結果でしかない。

それが秀でるまでに努力した人間であり、それを解決するまでに努力した結果である。

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

 
40兆円の男たち  ――神になった天才マネジャーたちの素顔と投資法 (ウイザードブックシリーズVol.224)

40兆円の男たち ――神になった天才マネジャーたちの素顔と投資法 (ウイザードブックシリーズVol.224)

 
奇人・変人・大天才 紀元前から19世紀: アルストテレス、ガリレオ、ニュートン、ファラデー、その一生と研究

奇人・変人・大天才 紀元前から19世紀: アルストテレス、ガリレオ、ニュートン、ファラデー、その一生と研究

 

====
例えばお前が今この瞬間になにかに秀でたこともなくなんの能力もないのは、今このブログを見ている様に日々怠けた生活を送っている結果だ。天才と呼ばれるような人や、奇跡と呼ばれるような事象を行った人間はこの瞬間もトレーニングや努力をしている。

例えばスポーツ選手は数分の為に1年中にトレーニングを行い、それを何年、何十年と続けて努力した人間の集まりだ。野球選手は一体一年間のうち何分間をバッターボックスに立っているだろうか。その時間のために1年間トレーニングを積んでいる。相撲選手にいたっては、土俵上の試合は数秒で決着がつくこともある。そのために毎日毎日トレーニングを積んでいるのだ。

それを見ずに結果だけに注目し、天才だの奇跡だの一体どんな根性を持っていればそんな発言が出来るのか。「あいつは天才だから」とその人間の努力を無にし、自分がそれをできないのは努力をしていない結果ではなく才能がないからと言い訳したいだけだろう。

例え幼少期からそれに秀で「神童」と呼ばれるような人間も、結局はそれを選択しない限りその才能は発揮できない。例えば野球選手がサッカーを選んでいたら今の評価があるかどうかはわからない。いろいろなスポーツを経験し、自分が集中できるものを選び、それに努力した人間でしかない。

全ての人間に全ての競技があてがわれその中から選択するわけではない。自分がそれを選択して努力してきた結果だ。小学生時代に少年野球をやっていた人ならわかるだろう。世間の鼻水垂らしたガキどもが土日にテレビゲームをして遊び呆けているときにその人達は炎天下の中トレーニングをしている。その違いだ。

「遺伝子が違う」と言い訳する人間もいるが、一体どの遺伝子が違うのか。遺伝学の何を知っているのか。それも単に自分がやらない言い訳とし、日々言い訳を探すことにのみ努力をしている結果だろう。とにかく日々サボる人間はサボるためにのみ努力する。サボるための努力であれば厭わないのだ。

 

「奇跡」にしてもその努力の結果その成果が生まれただけだ。「奇跡の結果」や「奇跡のタイム」、「奇跡の逆転」など存在しない。どれもその行為の結果だ。

本当に奇跡と呼べることがあれば、生まれたばかりの赤ん坊が100メートルを7秒で走るようなことだろう。その行為を出来るはずのない人間がそれを出来ることが奇跡であろう。それに対してそれを実現すべく努力してきた人間に対し、その結果が「奇跡」とはいかに失礼な言い方だろう。

最近の24時間テレビではすぐに「奇跡」という。世間ではそれが流行り、怠けた連中が努力を否定したいためにそれを受け入れるのだろう。

昨年の24時間テレビでも「義足の少女が挑む富士登山」としてそれが「奇跡に挑む」とされていた。一体これのどこが奇跡なのか。その少女の頑張り次第だろう。「やりませーん」と言って動こうとしないところに神風が吹いて山頂まで飛んでいけば奇跡だろうが、自分で一歩々々登っていることのどこが奇跡なのか。本人のがんばり、努力でしかそれはない。

 

あなたも自分の仕事の結果を「奇跡だね」と言われれば腹が立たないだろうか。それは自分が努力して行った業務の結果であるのに、それがいきなり努力や行為を無視して「奇跡」とそれらが一蹴され、それがたまたまうまくいった結果だと評価される。

こんな馬鹿げたことはない。だがあなたは日々それを行なっているのだ。

 

自分がやっていることをきちんと理解して欲しい。

日々どれだけ人を馬鹿にしているのか。