ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

芸術品に価値はない

私はアルフォンス・ミュシャの絵(リトグラフ)が好きだし、作者は特に限定しないが日本画水墨画も好きだ。

だがそれぞれを買うとなったらポスター「が」(「でも」ではない)いいし、ミュシャリトグラフを買うとなっても最近の刷が良い。

理由は単純で、ポスターなら飾って色褪せても買い換えたら常に綺麗な発色のものが維持できるし、飾るのに劣化に気を使わなくても良い。そして何より、一枚数千円で手に入れることが出来る。

ミュシャリトグラフにしても協会様が定期的に刷ってくれるのでこれは数万円(シリーズなら数十万円もあるが)で本物が手に入るし、本物がその値段なのでポスターなら更に安く手に入る。

ポスターのテカリが嫌に思っている人でも、シルクスクリーンならそれも気にならないだろう。だがそもそも、シルクスクリーンを額に入れて前面にガラスを入れてしまってはポスターよりもテカリが多くなってしまう。やはりポスターをそのまま飾るのが最も見やすいだろう。

 

そもそも水墨画なんかは古いものをわざわざ探さないでも現在でも作家はいるのでその人たちの作品を買えば実物が安価に手に入るし、それを購入していくことで今後も安定的に供給されることが期待できる。

そして何より、仕事として直接絵のリクエストを出すこともできるので、自分の好きなモデルなんかを頼むことが出来る。これは過去の人間が書いた絵では出来ない自分の好みを選べるというメリットにもなるだろう。

 

アルフォンス・ミュシャ作品集 新装版 アール・ヌーヴォーの華

アルフォンス・ミュシャ作品集 新装版 アール・ヌーヴォーの華

 

 

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こんな感じで私は絵を、いや、いやゆる芸術品と言われるものを実用品として考えているのだが、この考えを持っているとたまに「本物にしか価値はない」と言う意見を耳にする。

そうすると私は「芸術品なんかに価値はない」と言うのだが、それがどうもあまり理解されないようだ。

 

これは私は何も「芸術なんて嗜好品に本質的な価値はない」といいたのではなく、世間で高額で取引されている芸術品というものは、それはその芸術品に価値が認められているのではなく、資産的価値が見出され、それが資産として取引可能な為に「芸術品」としてではなく「資産」としてやりとりされるために高額になっているだけに過ぎないということだ。

コレを聞くと「資産として高額になるのであれば、その芸術性に価値が有ると言う証拠」と簡易的に考えるようだがそれは大きな間違いだ。

例えば株価は毎日上下しているし、金相場も上下している。土地価格も上下しているし、もちろん絵画などの芸術品価格も上下している。

これは株式にしろ金にしろ土地にしろ全て「資産」として成り立つものであるからこそ上下するのであり、それが本質的価値を持ち、絶対的に枯渇していくものとは大きく違う。資産とは「通貨評価が可能な収益をもたらすことが期待される経済的価値」になるのであるから、そのままそれは「芸術的価値」ではなく「経済的価値」となる。そしてそれは「資産的価値」であるのだから、会社はその価値を認めてそれを購入するのではなく、将来的に価格が上がることを見込み「投資目的」で購入する。

資産の価格変動は経済状況にそのまま左右され、例えば日本のバブル時には世界中の美術品を日本が買い占めんばかりに購入していたが、今現在はバブル時代の価格の半額以下や1/10以下の価格というのも珍しいくない。これは土地だろうと金だろうと株価だろうと資産は全て同じことだ。その価格でも欲しい人がいるから値段が上がり、欲しい人がいなくなれば値段が下がる。

コレは以前に書いた「オークションは危ない」とも関連するが、そういった資産的価値は「買いたい人に値段を決めてもらう」以外に価格を決定する方法が無いためにほとんどがオークションで売買される。

そしてそもそも、オークションで購入した時点でそれは買値の半額強程度の価値しか無い。

これも理由は単純で、オークションに出す側はオークションの出品に対して手数料がかかる(その他にも保険料やカタログ掲載料などもかかる)し、落札する側も購入手数料がかかる。そしてもちろん出品した側は所得に対して税金がかかる。そしてコレをまた取引するときは自分が出品側になるのだから逆側の手数料がかかる。

ということは、結局的に実際にその芸術品に対して支払われる額というのは半額程度のものになり、投資目的であればそれ以上に値段が高騰することを考えて落札しなければならない。

 

ここまでは芸術品の資産的価値と言う話を進めてきたが、では芸術品とはどのようにして値段が決まるのかも考えてみよう。

例えばまず前提にしなければならないのは、基本的にいわゆる芸術品の価値は、「死んだ人」のものでなければならない。

コレはなぜなら「今後それが作られない」と言う希少性がその価値を跳ねあげるからだ。存命の人間の作品であれば今後も作品は増えるであろうし、そもそもにオークションなんかで取引されるよりも、業務として制作され、その業務の一巻として値段がつけられ売買されるために値段が一元的に決定される。

絵画の世界でも、その人が死んで何年、何十年も経ってから価値が跳ね上がるというのが基本になっていることは知っているだろう。

そして、それはいわゆる「著名人の作品かどうか」で価値が左右される。

「芸術品」として価値がつけられるのであればそれは著者に関係なく値段がつくはずであるがそうはならない。「誰が作ったか」、「いつ作ったか」、「どこで作ったか」が価格を決める重要な要素になり、作品の見た目など価格にほとんど左右されない。

 

これは信じがたいようだが、例えば最近でもサザビーズとクリスティーズの真贋鑑定によってオークションの落札価格が60万円から6億円へと1000倍も変わるという事もあった。こんなことは決して珍しいことではない。

作品は同じでも、弟子が書いたか、本人が書いたかでこんなにも値段が変わるのだ(この件に関しては上塗りなど多少他の要因も入るが)。

そして重要なのが、この真贋鑑定にしてもいわゆる「専門家」と言う人が判断するだけだ。本人は死んでいるのでそれは本人が書いたかどうかわからないので勝手に判断するしか無い。

だからこそ、本物と判断されたものでも後から偽物と判断されることもあるし、偽物と判断されたものが後から本物と判断されることもいくらでも有る。なんでも鑑定団なんかで鑑定してもらっている人が居るが、あれで真贋を判断することはかなり危険だろう。

 

そして最も重要なものが希少性になる。作者がいくら有名であったとしても、その作者の作品が1億枚も出ていたとすれば1枚1枚の価値などたかが知れたものだ。だが世界に数枚しかないとすれば、その希少性は跳ね上がる。

だからこそそれ以上に作品が増えないように作者が死んでいる必要が有るのだ。

例えばパウルクレーの後期の作品を見れば、パウルクレーを知らない人からすれば幼稚園児が書いたレベルと判断されるだろう(決してクレーの絵を馬鹿にしているわけではない)。

忘れっぽい天使

 

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http://aging.co.jp/megumemo/2011/08/24/51610352/より引用

鈴をつけた天使

 

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http://aging.co.jp/megumemo/2011/08/24/51610352/より引用


コレを見て誰が高額で取引される作家の絵と判断できるだろうか。正直なところ、幼稚園児でももう少しうまく書けると思われるだろうし、「鈴ってニコチャンマークかよ」と思われるかも知れない。

このように、どのような絵であったとしても、いや、そもそもに絵ではなく、著名な画家が折りたたんだ紙であったとしても、それが著名人の作品であると判断すればいくらでも高額に成り得る。

だからこそ例えば最新技術で鉛筆画を分子レベルで完全再現したとしても、それは本人が書いたかどうかでしか価値は判断されない。

「誰が作ったか」でしかいわゆる芸術作品の価値は判断されないのだ。


だからこそ結局的には「真贋鑑定」というものが存在し、その作品の優越ではなく、特定の作者が書いたかどうかのみが鑑定されるのだ。


そしてここまで読んでもらえればわかっただろう。

芸術品の価格はその芸術性の価格ではなく資産的価値、経済的価値でしか判断されない。だからこそその作者が評価される流行によって価格が変動するのだ。

その変動の差益で利益を上げるために投資対象となり、紙切れに塗りつけたペンキの柄が数億円や数百億円という価値を持つことになる。