ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

オークションは危ない

世間ではオークションが流行っているようだがオークションほど危ないものはない。

確かにオークションは安く買える場合がある。大量生産大量販売の現代では、それらの商品についてはオークションは安く入手できる場であろう。大量に販売されているわけだから潜在的な在庫は枯渇しておらず、それを購入した人間も不要になればオークションに出す。循環売買サイクルが出来た場なのだ。

だが少しでもレア物、希少的価値があるものはオークションでは世間の平均価格を大幅に超えて高騰する。例えばショップでは1万円で売っているものでも、オークションであれば10万円を超えることもザラにあるのだ。

 

マーケット・デザイン オークションとマッチングの経済学 (講談社選書メチエ)

マーケット・デザイン オークションとマッチングの経済学 (講談社選書メチエ)

 

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理由は単純だ。世間の商取引では、世界に二人しか必要としている人がいないものに価値はつくことがない。量販店に行けば大衆が求めているものが売られている。

大衆から必要とされず、生産されても売れないものは撤去されていく。よって、世間で販売されているものは大衆から必要とされるかどうかというフィルタリングをされているのだ。

最近では昔から販売されていた駄菓子の生産終了が増えてきた。だがそれは現在に需要がなく売れず、利益が生まれなくなったからこそ生産が終了されるのだ。それが大きく利益を出すものであれば生産が止まることはない。会社の方針変更があるとしても、利益が生み出される商品であれば他社に権利が譲渡されて生き残る。それができない商品であるから消えていくのだ。

だが世間では「生産終了」と発表されてから「あのお菓子がなくなる」と騒ぎ出しこぞって購入される。今まで見向きもされていなかったものが、なくなるとなった途端に「懐かしい」や「残念」、「いいものがどんどんなくなっていく」と言い出す始末だ。これも「弱者に厳しく死者にやさしいこの国この国人」にも書いた「世間への気がかりアピール」に含まれていることだろう。

そう騒いでいる連中が買わなかったからそれがなくなるのだ。そいつらが普段からそれを購入していればそうはならなかった。だが無くなるとなってから騒ぎ出すのはどう考えても頭のおかしな連中だ。無くなることを知っていなければ死ぬまでそれを口にすることはなかっただろう。先の、人が死んでから騒ぎ出す連中のように、それがあることにはなんの感情も抱かないのに、無くなることに対しては批判するのだ。であればその販売を維持するように金を集めれば良いのに自分は一円も出そうとしない。そんな連中だ。

そしてそれまでにその駄菓子が一袋30円、10袋300円で売っていたのに、それが「無くなる」と言う希少性を持つことでオークションでは1000円や3000円にまで暴騰する。今までに100円均一で4袋100円でも見向きもしていなかった連中が一袋100円でも買おうとするのだ。それが希少性だ。希少性とは本来的な価値とはかけ離れた莫大な価値をもたせる。

最近でカルミンの販売終了が決まったので、これも近々価値を持ち出すだろう。


これがオークションの危険性だ。本来的な価値以上の価値が簡単についてしまう。

 

そしてその価値は大衆が求めているものではなく、欲しているものが自己の判断でつけてしまう。例えばその駄菓子にしてもスーパーであれば定価で売り続けられていたとしても、手に入れることができない人たちがオークションという場を通じて価値を共有するのだ。

大衆からすればそれは100円の価値であっても、それを欲する人間が僅かでもいれば1万円にでも10万円にでも成り得る。これがオークションの怖さだ。

世界60億の人間からしたらゴミだとしても、世界に二人それを欲する人間がいればそれは莫大な価値を持つ。その二人がそれぞれに1億でも欲しいと思えばそれは1億の価値を持つのだ。だがもちろんその二人以外からすればそれはゴミでしか無い。一億で購入したとしても世間的にはなんの価値もないゴミだ。

 

例えばヤフーオークションでも観察していればこの事象を頻繁に目にすることが出来る。

例えば私が目撃していた良い例としては、坂本真綾の店頭BGM用CDがすごい値段がついていた。それは1000円出品で自動延長が付いていた。

そして終了15分前までには数人で5000円くらいまで値段が上がっていた。世間的にはそれくらいの価値なのだろう。だがそこから価格が暴騰した。

そこからは二人の入札者が入札を競い合い、延長を繰り返し、落札価格は10万円ほどになった。5000円以降はその二人が入札を繰り返していたので、この二人がその商品に価値を感じていたのだろう。そしてそれ以外の入札者は5000円までの価値と判断していたのだ。

これがその二人のみがその商品に価値を見出していたためにオークションでつり上がった例だろう。世間的に5000円程度の価値という事は、ショップでの取り扱いは5000円から1万円までになるものだ。

そしてその商品の価値が決定的なものとなったのはそれから数年後の話だ。それを落札した人か、それを落札した人から更にまた譲ってもらった人なのかはわからないがその商品が出品されていた。落札した人間はそれが不要になったのであろう。

だが世間の人間からすればそれには10万円の価値がないのは先から書いているとおりだ。

その商品は5万円で出品されていたが長いこと落札者がおらず1万円に値下げされた。そしてそれでも落札者がおらず1000円単位で値下げがされていた。最終的にはいくらで落札されたのか、それとも引っ込めたのかはわからないが、世間的に1万円の価値がない商品を二人が価値を見出していただけになるので自分が望むべく値段がつくことはない。

 

これは極端な例ではなく、オークションでは至極一般的な話だ。

古いコンピュータではこれが顕著になることがある。家電リサイクル法でパソコンを処分するにはお金がかかるので20年前のコンピュータなど世間的にはゴミ以下の物であるが、その時代のコンピュータを現在も動かし続けている施設は多い。それを今後も動かし続けるのであれば、その保守部品は企業がひっくり返るほどに重要なものとなるのだ。

それ故に数十万円になることもザラにある。

 

これが求めるものがいる市場を狙うオークションの危なさだ。オークションは売る側に都合がよく、買う側には都合が悪いシステムなのだ。特にヤフーオークションでは出品手数料が無料化されてからこれが顕著になっただろう。

更には自分が予定していた額を超えても「あと250円なら良い」とドンドンと値段が釣り上がってしまう。そして本来購入したいと思っていた額の倍近くの値段で購入してしまう人もいる。その額であれば中古市場でザラにあるのにだ。

「オークションを監視していた時間がもったいない」と言う心理も働くのだろうがとにかくオークションは心理的な側面からも価格の上昇につながるのだ。

 

オークションはたしかに安く購入できることもある。その瞬間にそれを必要としている人が自分しかいなければ市場の1/10以下の価格で落札できることもある。

だからこそ最初に「この値段なら買う」と決めた値段を考え、その値段をその場で入札し、終了時刻以降に落札できたか確認すれば良い。たとえ自分の予定していた額から100円上で落札されていたとしても悔しがることはない。それは自分がつけた価値以上の価値なのだ。

そしてそれは世間的にもその以下の価値しか無いのだ。たまたま一人の人間が自分より少しばかり価値をもたせていただけだ。その場を監視し更に500円上を入札したとすれば1000円以上のアップはほぼ確実だっただろう。

オークションとはそういうものだ。そしてヤフーオークションなどのインターネットークションは出品期間というのは実質的に入札する期間ではなく、商品を陳列しお披露目する期間だ。実質的な入札期間というのは出品終了時間の30分ほど前からだというのは多くの人が経験しているだろう。

自分で欲しい価値をその場で入札しておけばそれに飲まれることはない。

 

私の周りにもこの罠に気が付かずに何度もオークションで失敗している人間がいる。是非とも冷静に考えて欲しい。

オークションとはこの二人の競争、心理的ストレス、緊張感を利用した売買手法でしか無いのだ。