障害者と主張する同僚
世の中ひどいもんだ。
ADHDがこれほどのものか。
私もADDで有ることは過去の記事に書いた。
クリニックでは、ADDは社会不適合、まともに働けない、働いているつもりかもしれないが働けていないと医者に主張されたことを今でも覚えている。
そんな、その説明を地で行く同僚がいる。
わたしが障害者じゃなくなる日 〜難病で動けなくてもふつうに生きられる世の中のつくりかた
- 作者: 海老原宏美
- 出版社/メーカー: 旬報社
- 発売日: 2019/06/01
- メディア: 単行本
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私は自分がADDであることを誇りに思うし、その診察が誤っているものだとしても、世の中の平均と違うということが嬉しい。平均の中にいるつもりはない。
人と同じことをしたくないなんて人と同じことを言っているようだけど、これが本心だ。
そして、そのADDであることを誇りに思っているので、稀に面白半分で自分がADDであることを他に言うことはあるし、発作のごとく体が動いたり、奇声をあげることもあるので、その際にも、発作です。と周りに言い、その周りも笑ってくれるくらいには周りの理解もあるとは思う。
しばらく椅子に座っておく必要がある場面ではチロシンを摂取したりもするし、自分なりにそれを抑える努力しているつもりである。
世の中では、障害者の理解を、障害者に配慮を、障害者に手助けをと、プロパガンダされているが、そんなのは間違っている。障害者自身が、自分はこうだから周りはこうするべきだ、自分のために社会のシステムをこう変えるべきだ、自分を特別に扱え、と声を上げるのはおかしくて仕方がない。それはわがままでしかない。
あの人はああいう人だからこうしたほうが良いだろう、あの人はこれが苦手だから手伝ってあげよう、あの人はこれができないからやってあげよう。このように、周りがその人を評価し、行動してあげようとしてくれるのが正しい姿であり、自分は出来ないと主張する人間を誰が手助けしようと思うのだろうか。
自分は出来ないから手伝えと言われ、それを手伝わなければ障害者を差別していると主張される。それは世間で言うパワーハラスメントではないか。障害者が差別されたと声を上げたら広く取り上げられるこの世界で、手伝えと声をかけるのは無理強いにほかならない。
私も生活している中で、視覚障害者や歩行困難者の手伝いをすることはよくある。だがそれは自分からしようと行動しているだけで、手伝えと言われてしているわけではない。誰か助けてくださいと声を上げている人がいれば手伝おうとは思うが、手伝えと声を上げていれば手伝いはしないだろう。
それが当然だと思っており人間にだれが耳をかそうと思うだろうか。
夜遅くまでゲームをして寝不足で出社してきた人間が、寝不足だから仕事をせずに寝ていたいですという主張がとおるだろうか。一時的にでも、睡眠が足りていないというペナルティーを追っているのだから、その人を助けるのが当然なのだろうか。
だが、子供を産んだばかりの奥さんが入院し、働きながら子育てをして、奥さんの御見舞にも行っている人間がいれば、それは周りがすすんで協力してくれたりしもするだろう。
障害者と主張する人間は障害者ではなくモンスターだろう。