ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

時間にルーズな日本人

前に「長崎の企業が全国に進出するのは難しいと思う理由」という記事を書き、長崎人が時間にだらしない、ルーズであるという事を書いたが、さらに日本人全体がだらしないとも感じている。

日本の電車やバス、飛行機などの交通機関が時間通りに発着することをいい例に「日本人は時間に正確」と言われているようだが、それは「そう決まっているから」出来ることであって、決まりごとは出来たとしても、自分で決めることについては日本人はいい加減かと思う。

遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成

遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成


確かに大阪や東京では電車は正確に発着する。それは正確に発着しなければ全てのダイヤが乱れるほどに過密に設計されているからになる。1本の電車が遅れれば、その線路を走っている全ての後続車に影響する。大阪や東京で数分遅れる事はなかなか無く、数分遅れることになれば電光掲示板にその遅延が発表される。一本の遅延に追従して芋づる式遅延する。

それはその時刻に運行させる事自体が商売になり、遅延があれば問題になり、自分の責任になるからこそ守られていることであり、自分で決めることが出来る時間についてはそのような正確さはない。また、その遅延によって責任を取らされることがなければ遅れたい放題になる。


まず、よく体験できるのは友達同士の待ち合わせかと思う。友達五人ほどで待ち合わせをすると、必ず遅れてくる奴が出ることを経験している。五人もいればその確実性が増すだけで、二人でも相手方遅れてくることはザラにある。
「バスが遅れた」、「信号に引っかかった」、「準備に手間取った」等、多種多様な言い訳を聞くことが出来る。電車と違いバスは交通状況の影響すらも受けるため、多少前後することはわかりきっているし、信号の場所は変わらないのでそれに引っかかることなど家を出る前から想定できる。準備に時間がかなったなどもっての外だ。それは完全にお前の責任で外的要因は何もない。

多種多様な言い訳を並べて「遅刻」の言い訳をするが、ほとんどすべてが「自分の責任」であることを自覚している人が少ない。自覚していたとしても「不確定な外的要因の為に遅れた」と理由を並べて正当化すらしようとする。「事故に巻き込まれた」等、本当に不確定な要因の遅刻もあるかと思うが、そんな頻繁に起こることはない。それほど頻繁に事故が起こるのであれば、それは想定できることになる。

このように「自分の責任ではない」ことを主張するために言い訳をするので、次回からのその遅刻に対する対策は行われない。「言い訳をすれば済む問題」と認識しているのでその改善努力は行われないのだ。
「バスが遅れることを想定して1本前のバスに乗る」、「信号に引っかかることを想定して速くに家を出る」、「スムースに家をでれるように前日から荷物を準備しておく」など、それらの要因の解決方法は簡単に思いつくのだがそれをしないのだ。

なぜなら「時間を守らなくてもいいことを知っている」からになる。謝れば済む問題に努力するつもりはないのであろう。だからこそ遅れた原因を問いただせば「謝っているだろ」と怒り出す。全く反省していない。


友達同士ならまだしも、仕事でもこのようなことは日常に行われている。

まず、仕事中に仕事をしない。就業時間が9時から18時だとすれば、昼休みを除いてその間は「仕事をする時間」だ。だがその間も仲のいい同僚同士で馬鹿話をしたり、無駄なWebサイトを見たり、携帯電話をいじる等、「仕事をする時間」の中に自分の娯楽を混ぜている。私が身の回りで調べた時は、3時間以上も「仕事以外」に時間を使っている者もいた。
一度別のことをしてしまうと、元の作業に集中するのに30分以上は時間がかかる。短時間でも1日に3度無駄話をすれば、一時間半を無駄にするのと同じになる。

会議の時間もそうだ。14時から会議と決まっていても、その時間に若手から集まり始め、部長などは5分から10分ほど遅れて会議室に入ってくる。「〇〇から手が離せなくてね」等と言い訳をかますが、会議の時間は毎週決まっている。その決まっている時間すら守れない。それもほぼ毎週繰り返す。
しかも、部長が遅れてくることは特に言及されることはないが、若手が遅れることがあれば会議の時間にも関わらず原因を問いただされる。時間に遅れることが問題なのではなく、部長よりも遅れてくることが問題とされているのだ。
また、14時から15時までを会議としていても、平気で16時や17時までに延長される。予定時間が意識されることはない。会議中も別の話にそれるなど、議題と別の話にそれるがゆえに無駄に時間がかかってしまう。

最後に、その一日の締めになる退勤時間も守れない。18時が定時だとしても、19時や20時まで仕事をしている。これは「忙しい」のではない。時間を意識していないがゆえにその日に行う作業のスケジュールを立てることが出来ず、ずるずると時間が伸びてしまっているのだ。
上に書いたように1日のうちに2時間も3時間も仕事以外をしているのだから、1日の仕事が定時までにできないのは当たり前になる。その無駄にした分を「残業」に回しているのだ。
さらに、その時間の意識がない人間は「残業」をすることを美徳と感じており、残業している自分を誇らしく思っている。定時に帰っている人間は「仕事をしていない」とレッテルまで貼り付ける。
時間意識がない人は時間意識のある人を馬鹿にするのだ。


このように時間にルーズな日本人が多いと感じている。


私の身の回りの人間の話だが、この「仕事に対する時間」の考え方はアメリカ人、中国人はきちんとしていた。出社してから定時の退勤時間まで無駄話をすること無くきちんと働き、退勤時間になると帰って行った。スケジュールから遅れることもない。
これは「仕事を途中でほっぽり出して帰っている」のではなく、16時を過ぎたら翌日の仕事の準備を始めるなど、時間をきちんと意識して働いているのだ。だからこそ時間通りに作業を行え、時間通りに退勤することが出来る。

この時間意識が日本人にはかけているのかと思う。


私が講師をしている際にもそのルーズさを経験していた。

「この資料に20分で目を通しておくように」や、「この問題を10分で解くように」と制限時間を決めて挑ましても、「まだ読み終わってません」や「まだ途中です。もう少し時間を下さい」と延長を申し出る。制限時間を与えた時点での要求であればまだしも、制限時間を迎えてからその要求を行なってくる。それがまかり通るわけがない。

納品の時間になってから延長が申し入れられるだろうか?入試で制限時間が来た際に「終わってません。もう少し時間を下さい」と言えるだろうか?
時間を与えられたのであれば、その時間を厳守する必要があるのだ。時間内で出来る限りの作業をしなければならない。それが制限時間なのだ。制限時間をすぎれば全ては0になる。

日頃から時間を意識していないからこそこのような要求をしてくるのかと思う。また、その要求を日本社会が許容しているのかと思う。
「市役所は定時で閉める」等と不満を言う人がいるがそれは当たり前だ。その時間「営業をしている」と公表しているのだから、その時間以後に行って対応を願い出るほうがおかしい。

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