ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

本は全部読むな

昨日に「読書の初め方」を書いた。その中では読書を始める為の最初のステップを書いた。

次は読書を進める上で最低限に必要な方法になる。まずは先の方法で本を最低でも50冊程度は読んでおいてほしい。そうする前にこの方法を実践すると最初から「読まない」と言う癖がついてしまう。

ランニングも始めた直後は一定の距離を歩いてでも走りぬくことが大事だ。それは「走る」と言うことを習慣化し、「走る」ことへの抵抗心をなくすことが大事だからだ。だがランニングをはじめてしばらく経つと「ランニングをしない日」や「距離を短くする」ことも大事になる。それは体調の変化や走ることによって起こる変化を予想できるようになり、その予想した結果が不適切と感じるから「走らない」のだ。「走れない」のではなく、「走らない」と言うこと注意がひつようになる。

新書がベスト (ベスト新書)

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読書もこれと同じで、最初は「本を読む」と言う習慣をつけるために最初から最後まで一文も逃さずに読み通すことが大事だ。それを50冊程度続けていると、「読書」に慣れ、「読書」への抵抗心も少なくなっているだろう。そして、それまでに50冊読んだという経験から、うっすらと多くの広い知識が付いている。そうなると、本を読みながら「ここは知っているな」や「この内容は重複しているな」、「これは読まなくていいな」、「この著者にはこんな癖があるのか」、「このレーベルの思想はこんなだな」と言ったような読む判断や癖がわかるようになってくる。

そうすると「ここは読まなくていい」と判断できる場所は読み飛ばせばいい。「ここは知っているな」と言う部分に関してはもう少々読み続けたほうがいいが、自分が「読まなくていい」と判断した部分はジャンジャンと読み飛ばせばいい。ある程度本を読み、本を読むことへの抵抗心が少なくなってきているにも係わらず嫌々全て読み続けると「抵抗心」が増えてくる。その抵抗心が増えると本を読むことが嫌になってしまうのだ。

だからこそ自分の判断を信じて「読まなくていい」と判断したところは読み飛ばせばいい。それが経験だ。例えばアニメでは最初に数分の歌が入るが、アニメを見ることに慣れると大体時間を予想して見始めたり、自分に必要のないところは見ないだろう。火曜サスペンスなんかは終わりの15分を見るだけで十分だ。崖っぷちで犯人が全てを回想形式で自供してくれる。

このように、ある程度慣れてくると「読むべき場所」と「読まなくていい場所」が判断できるようになっていくのだ。判断できるようになればその判断を信じて「読まなくていい」。


「読まなくていい」と言ってもどこまで読み飛ばせばいいかはわからないので、その読み飛ばす範囲を読むために「流し読み」や「読み飛ばし」をするのだ。流し読みは1行1行読んでいたのを3行おきや10行おき程度の感覚でざっと読みなんとなくの内容を把握する。そうして自分が読まなくていいと判断した内容が終わっているかどうかの判断をし、判断できない部分になればそれは別の話も入ってきているので少し前に戻って読み始める。「読み飛ばし」はページ単位や章単位で内容を確認せずに読み始める。わからなければ前のページから読み始める。

この行為は最初は「わけがわからなくなる」と思うかもしれないが、本を読むことに慣れれば想像力で解決できるようになる。想像力が鍛えられれば、多少の内容を飛ばしたところでその内容を想像できるのだ。世間では「空気を読む」とは「その場の雰囲気」ではなく「相手が望んでいること」と勘違いされているようだが、これが本当の空気を読むことだ。最近は読書をすることが少なくなってきてこの「想像力」がかなり欠落してきていると感じる。読書はまさにその想像力をフルに使う行為なので、読書や読み飛ばしがどうも苦手と思う方にはこの想像力が欠落しているのかもしれない。

このような読み飛ばしをしていると、書籍によっては本当に数分で読み終わることがある。それは9割以上の内容を読み飛ばすことがあるからだ。同じ分野の本を何十冊も読むと内容がかぶることが多い。特に物理学や宇宙科学の書籍では内容がかぶることが多い。それは前提となる条件が感情などと違い同一になるため仕方がないことだ。他にも同じ著者の書籍を買うと同じことがつらつらと書かれていることが多いのでそれを読み飛ばすとほとんど読む場所がないこともある。

何度も言うがこれは読書に慣れてからすることが大事だ。読書を始めた当初から読み飛ばしをすると「めんどくさい」や「難しい」からと言う理由で読み飛ばすことにつながってしまう。最初はそれになれるために1行づつきちんと読まなければそれになれることは出来ない。

書籍など全ての内容が新しいことなど皆無なので、自分が読みたい場所だけ読めばいいのだ。1冊買って、1行だけ読みたい場所があればそれで十分。本を読んだ後に1行でも心に残った、覚えた部分があれば十分なのだ。大袈裟に言えば、知らなかった単語を一つ覚えただけでも十分だ。もっと大袈裟に言えば「買った」だけでも本は十分なのだ。買えばいつか気になった時に参照できるし、タイトルが気になったのだから「タイトル」を知っただけで十分になる。


読書をしない人間や読書を批判する人間はこの行為を批判するようだ。「本を買ったのに読まないのはもったいない。無駄。」と言う理論だ。

これは読書をしないから、読書をしている人間が「ちゃんと読書をしていない」と批判したいがために言っているようにしか思えない。本は「全部読まなければいけない」というものでもないし、著者もいちいち「全て読んでほしい」と思って書いていることは少ないだろう。わざわざと前書きに「読みたいどころだけ読めば十分」と書いてくれている著者もいるほどだ。

先に書いたように本を読まないことの何がもったいないのか。無駄なのか。知っていること、読まなくていいことを読むほうが無駄ではないだろうか。時間の無駄。労力の無駄。

例えば新聞など広告欄も含めて全て読んでいる方なんて本当に極僅かだろう。自分の読みたい記事だけ読めばいいのだ。これが理解できないのであろうか。雑誌も同じだ。自分が気になる特集があればそれだけ読めばいい。それを読む最中に他にも気になる記事を見つけたらそれも加えて読むだけでいい。

「全て使わなければもったいない」と本心から思っているのであれば、衛星放送などの有料チャンネルを24時間放送時間中に見続けているのだろうか。出来るわけはない。そもそも2チャンネル以上契約していては「どちらか」しか見ることは不可能だ。そしてあなたが今使っているインターネットが常時接続であれば、「常時に全体域」を使いきっているのだろうか。お金を払っているのだから使わないのはもったいないはずだ。

衛星放送を見ていても再放送が多いだろう。本の中の重複した部分はその再放送と同じで、さらに興味のないもの、知っているものがあるのも本もテレビも同じだ。


このようにお金を払うからと言って全て読まなければもったいないというわけではない。確かに本を買って読んで「何のためにもならかかった」と言う本もあるが、それすらも経験なのだ。「この本は面白くなかった」と経験すればその著者の本を今後に買うときは少し立ち読みすればいいし、その経験をすることで面白くない本を判断する能力が増える。

このように「本を読む」と言う簡単な行動にも、その行動に付随したいろいろな経験が出来る。そしてその経験から多種多様な判断能力が鍛えられていくのだ。

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