ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

鬱になりたい病気

日本人総鬱時代とはよく言ったもので、日本人の大多数が鬱になりたいのではないだろうか。

実際現在も鬱という「病気」になっている人の大半が「鬱になりたくて鬱になった」人たちだ。鬱になりたい人というのもおかしく聞こえるかもしれないが、それが日本人のおかしなところなのだ。戦時中には徴兵を逃れるために醤油を飲み徴兵を逃れたように、それが現在は鬱になることで社会的に保護されようとしているのだ。

鬱と診察されれば錦の御旗を手に入れたようなもので、どこからしらで自分の都合の悪いことがあれば鬱を理由にどうとでも出来る。

会社も休め、給料ももらえ、周りからチヤホヤされ、こんな自分にした会社を批判できる。こんな素晴らしいことはない。是非とも私も鬱になりたい。

鬱の力 (幻冬舎新書)

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そもそも鬱とはどんな病気か。簡単に言えば「落ち込んでいる状態」だ。

そんなこと誰にでもある。私も今落ち込んでいる。落ち込まない人などいるのだろうか。だが鬱になりたい人たちは「私は鬱だ」と思い込み、それを信じこみ、「私はうつ病だ」と更に落ち込んでいく。これは自ら風邪を引きに行くようなものだ。だがこれが日常的に行われているのがうつ病の現状だ。

このような症状が鬱なのだから鬱病になるのは非常に簡単だ。落ち込んでると思い込めば勝手にそうしてくれる。脳とはそういうものなのだ。自分が思ったとおりに身体を進行させてくれる。少ししんどいと思い体温を計った時に39度なんてあった日には、その体温を知った時点でしんどいと感じ始めた経験はあるだろう。これが「思い込み」と言うもので、プラシーボと同じように思い込みで病状は深刻化していく。


統合失調症が「何かわからないからこれ」という理由で付けられるように、鬱病も「患者がこう言っているのだから」という理由でつけることが出来る病気だ。実際にはDSMの判断基準が使われるが、結局はどれも患者の主張で判断されるのでいくらでも鬱病になることが出来る。

苫米地英人も言っているが、そもそも脳機能学的に見れば鬱病なんてものは存在しない。「落ち込んでいる」と言う症状なのだから原因は何かの悩みに起因する。ということは「もー悩まなーい」と今この瞬間に考えればその瞬間に鬱病とはおさらばなのだ。だが鬱病が錦の御旗となる以上そう考えられる人は少ないだろう。

自分が鬱病であることをアピールするために人前で落ち込んでる表情を見せてみたり、薬を飲んでいることをアピールしてみたり、病院に通いアピールする。それでも相手にされなければ薬を必要以上に飲み「自分は周りの人間よりも深刻です」とアピールを始める。これは鬱病ではない。単なるオーバードーズだ。


私の周りにも鬱病になりたい人が大勢いる。もちろん私もなれるものならなりたい。

それらの人たちは病院に「一度」診断を受けに行くだけではない。何度も受診に行くのだ。鬱病と診断されるまで病院を変え、症状を変え、とにかく自分が鬱病と認めてもらえるまで納得しない。この時点で鬱病ではない。何事もやる気が出ないのであれば「鬱病と診察してもらう」ことも億劫になるはずだ。だが本来鬱病ではないので献身的に努力して鬱病と診察されに行く。

病院とは本来、患者を「病気」と診察することを望むのだ。健康診断なんかにいけば、とにかくいちゃんもレベルの症状を書いたり、歯医者が永遠と終わらないのはこのためだ。病気と診察しなければその場で利益が途絶えてしまう。だがしかし、病気と診察出来れば薬を定期的に出し、定期的に来院させ定期収入とすることが出来る。病院は患者に診察を受けてもらってなんぼの商売だ。

特に鬱など儲け頭だ。患者が病気であることを望み、患者が将来にわたって鬱であることを望んでいるのだからかなりの長期にわたっての収入が期待できる。だから相当鬱陶しい患者以外は是非とも優良顧客にしたいのが現実だ。

だがそんな病院で「鬱病」と診断されないということは鬱ではないのだ。先に書いたように診断基準もあり、病院毎の誤差は医者の主観に頼る。患者の主訴に対しての医者の主観だ。だからこそ、一度目の診察で「鬱でない」と診察されれば、次の病院では「鬱ではない」と診察された理由を「鬱であるように」変えて診察を受ける。そこでもダメならその次へと変えていくのだ。

こんな患者が多数いるからテレビなどで「鬱と診察してもらえない」と発言している健康児がいるのだ。鬱ではないのだから鬱と診察されないのは当たり前だ。風邪を引いている時に「私は風邪を引いているんだ!」と周りにアピールしていくだろうか。特に鬱ではそのようなことが出来ないはずだ。


そして私の周りでは「鬱になりたい人ネットワーク」というものがあり、「鬱と診察してもらえる病院」と鬱病患者が鬱病になりたい患者に紹介している。他の病院ではダメだったけどその病院にいけば鬱病と診察してもらえるという。

先の自文の主訴を変えるということからもそうだが、このような欝になりたい病気というのは決して鬱ではない。これは「虚偽性障害」だ。自分が病気であるということを捏造したいという精神疾患だ。先に書いた薬を必要以上に飲むというのも深刻さをアピールするための虚偽性障害の一種になる。


この「欝になりたい病気」というのは非常に危ない病気になる。虚偽性障害も自分が病気であることを認めてもらえなければ暴挙に出ることがあるので危ないが、虚偽性障害からミュンヒハウゼン症候群までに行くとまずい。虚偽性障害の症状が重篤なものがミュンヒハウゼン症候群となる。自分が鬱になりたいばかりに進んでしまうのだ。鬱と診察されても更に深い病気であろうとするためにドンドンと進んでいってしまう。

ミュンヒハウゼン症候群は自分の病状をアピールするだけではない。その薬が効かないとオーバードーズを繰り返すだけではなく、それが効かないことをアピールするために自傷行為にまで及んだりもする。


このミュンヒハウゼンが更に危険性を増していくのが、実家に住んでいる場合や結婚している場合になる。自分の症状がそれら家族に認められないと認められるようにその家族を攻撃しだすのだ。自分はこんなに苦しんでいるのに相手をしてくれない。話を聞いてくれない。看病してくれない。と、周りに撒き散らす。自分の家族が敵であることをアピールし始める。

そうすれば更に自分が恵まれていない人間であることがアピールできる。周りの人間が冷たい人間であるとアピールし続けるとそれが代理ミュンヒハウゼン症候群などにもつながる。

鬱病の人の離婚原因はこれが多い。自分の症状を認めてくれない、話を聞いてくれない。聞いてくれないから自分の主張を繰り返す、聞き手からすると同じことを何度も言われ更に効かなくなる。悪循環だ。とくに鬱になりたい人たちはアピールに必死なので何度も繰り返す、こうして夫婦関係、家族関係が崩れていく。


インターネットなどを見ると鬱病と診察されたい鬱病と診察された人たちの活動記録が多く見つかる。自分は鬱病だ。自分は苦しい。自分はこれだけ薬を飲んでいる。薬が足りないのでオーバードーズしている。

自分の身の回りだけではなく、インターネット上の知らない人たちにも「自分はこんなに可愛そうな人間です」とアピールを初めている。先に書いたように、脳とは自分が思ったようにしてくれる便利な臓器だ。自分が深刻だと思い込めば深刻にしてくれるのだ。だからこそインターネットでアピールを繰り返しその重症度を増していく。


このような記事を書くと鬱病活動家の方の目に止まり反対活動が行われるかもしれない。自分たちの「鬱になりたい病気」というのが反証されるのが困るのだ。

さて、落ち込んできた。寝よう。