ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

万年筆ユーザの字は綺麗なのか

万年筆を使っている人は字も綺麗なのか。そう思われても仕方がないだろう。

「万年筆を使っていると字が綺麗に見える」だとか、そもそも「字が綺麗な人が万年筆を使っている」だとか色々聞くが、まぁそれは私の字を見てもらえれば明らかに間違いだとわかるだろう。万年筆を使っているが自分で読めないくらいに字は汚いし、字が汚い状態で万年筆を使っている。

万年筆を使うからと言って、その利用条件に「字の綺麗さ」があるわけではない。字が綺麗でなければ万年筆を使う価値がないと言うわけでもない。

だが世間からすると、万年筆を使う人間は字が綺麗で、その価値に見合う文を書いていると思われるのは仕方がないことかと思う。

 

オート 万年筆F-スピリット FF-10Fゴールド

オート 万年筆F-スピリット FF-10Fゴールド

 

 

例えば考えて欲しいのが、ポルシェに乗っている人間は「運転がうまい」と思わないだろうか。プロドライバー並みというものでなくても、そこそこにはその道具を使いこなせるほどにはうまいと思っていないだろうか。

ポルシェに初心者マークが貼られていたり、縦列駐車にもたついていたり、高速道路の合流に戸惑っているのをみると、「下手な奴がポルシェに乗るな」と思う方が多いのではないだろうか。これはフェラーリでもポルシェでも高級車ならおなじことだ(メルセデスはただの金持ちがよく乗っているので例外だが)。

他にも100万円するパソコンを買った人が「YouTubeを見るのに使ってる」と言うのであれば、3万円のノートパソコンでも十分だろうと考えるだろうし、新卒の新入社員がグランドセイコーのスプリングドライブをハメていたらちょっとムッとするだろう。

そのように世間には分相応という考え方がある。

運転が下手な人がフェラーリを運転しようとなんの問題もあるわけではないのだが、世間には金持ちに対するヤッカミや、「日本でそんなにスピードを出すところはない」と言う考え方、「フェラーリがかわいそう」と言う訳のわからない擬人化、「下手な奴は運転しやすい軽自動車に載ってろ」という現実主義まで、様々な理由から受け入れられづらい。

私も実際に100万円以上するコンピュータを使っていたが、その当時は「そんなに高いので何をするの」や、「数万円のものと何が違うの」、「それに見合った仕事はしてるの」と言う手厳しいコメントを受けたりもした。そして何より、数百万円分の書籍を所持しているが「それ相応の知識はあるのか」とも言われたりもする。

このように分相応という考えによって、万年筆を使う人はそのペンを使うべきほど字が綺麗であるか、そのペンを使う価値のある文章を書いていると思われても仕方のないことだ。

字が汚くてしょうもない文章しか書いていない人は、世間からすれば何万円もする万年筆を使うということに相応する人材ではないのだ。だからそれを使っている人はそれに相応する文章が掛ける人だろうと、字が綺麗だろうと想像されているのだ。

私は以前からも書いている通り毎日数十枚の文章を書いているが、私も日記帳や手帳にメモを取る程度で万年筆を漬かっている人は「万年筆を使う意味はない」と思ってしまう。特にいわゆる「細字万年筆」を使っている方には「ボールペンのほうがいいのではないか」とも思ってしまうほどだ。

万年筆は長時間書いていても楽であるし紙への引っ掛かりも少ないのが魅力であるのに、長時間も書かず、紙へ引っかかりカリカリという書き心地の万年筆を使う理由に悩んでしまう。

まぁこれも私のヤッカミのようなものなので本人からすれば関係のない話だろう。

万年筆ユーザがボールペンやシャープペンシルのユーザに「書きづらいものをよく使っている」というが、これは逆に非常に馬鹿な考え方だろう。

例えば私は100円の鉛筆を数万円の万年筆よりも書きやすいと言っているが、「筆圧が強いお前が悪い」や「高い万年筆を使う価値のない人間だ」と言われたりすることもある。何と言うバカバカしさだ。

十人十色な使い方が有り好みも違うのに、高い万年筆は「相応する価値が有り、コレを使うのは選ばれた人間だけ」というのはバカバカしい考えだろう。万年筆を使いやすいという人間が要るのとおなじように、ボールペンやシャープペンシルが使いやすいという人間もいるし、私のように鉛筆が書きやすいという人間も要る。コレは当然である。

先の車の例であっても、ポルシェやフェラーリが乗りやすいと言う人もいれば、そんなものよりも軽自動車のほうが運転しやすく、日本の道路事情にあっており乗りやすいと考える人も要るだろう。それと全く同じことだ。

そしてなにより万年筆が書きやすいと思っても、その実用性や利便性、携帯性、コストパフォーマンスからあえてボールペンを選んでいる人も要るだろう。そんな人に万年筆を薦める、万年筆使っていない人間を馬鹿にするという事こそが馬鹿なことだ。

例えば万年筆を使っている人間は東京の一等地に住み、高級車に乗り、腕時計はグランドセイコー、背広はアルマーニ、お手伝いを雇っているのだろうか。これらを実現している人間からすれば、それらを使っていない人間は同じように「なぜそんな住みづらい生活をしているのか」と思われている。

万年筆を使っている人間の中にも軽自動車に乗っている人も要るだろう。それはなぜか。コストパフォーマンスが優れ、取り回しも楽だからだろう。

ボールペンやシャープペンシルを使っている人もこれと全く同じ考えになる。

なぜ万年筆ユーザにはこんなことも考えられない狂人と化した人が多いのであろうか。

万年筆を使っていることに優越感でを感じ、日々の劣等感をそれで解消しているのだろうか。