ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

仏教について

先に「般若心経は間違い?」を読んで感想を書いた。

その中で著者の言動は少々過激で受入れ難いとも書いたが、だがそれが本来的な「仏」の「教え」であればそれは仕方がないことだ。仏の考えを知るには、それを受け入れて考えるしか無い。

そしてたまたま先ほどにAmazonのレビューを見てみたのだが、案の定というべきか荒れている。やはり般若心経をお題目として唱えてきた人たちからすると、本書の内容はあまりにも過激で受け入れることの出来ないもののようだ。

受け入れ難いという気持ちもわからなくもない。今まで自分たちが信じてきたものが「偽経」とされただけならまだしも、急にそれ以上に「勉強していない人間が片手まで作ったようなもの」と言われるとどうしても狼狽えてしまうだろう。

 

だから仏教は面白い!前編

だから仏教は面白い!前編

 

 

池上彰と考える仏教って何ですか?文庫版
 

 

だがいくら狼狽えようとその真実は変わらないのでそれは受け入れざるを得ない。

それを受け入れた上で、その内容が素晴らしいものであると思えば問題ないだろう。例え偽物で片手間で作られたものであったとしても今後もそれを信じて行動していってもいいのだ。それは当人の自由である。

例えるなら、ブランド物のバッグを使っていてそれが偽物と知ったとする。たとえ偽物であったとしても、それが彼氏に貰ったものであったりそのモノについての思い出があるだろう。その思い出という価値は変わるものではない。そうであればそのバッグは今後も使っていけばよいのだ。

偽物であるとわかった途端には資産的、ブランド的な価値はなくなる。だが自分がつけた価値は自分のものだ。それを自分の価値ではなく対外的な価値だけで決め、偽物であるとわかった途端にそれを捨てるのは単なるブランド志向であると言えるだろう。

だからまぁそれが偽物かどうかは本人にとって、信仰にとっては関係のないことだ。それが偽物と判断されることに文句を言うのは単なるブランド志向だ。それを持っていることが自分の価値の一部であると判断しているから、それが偽物であることは自分の価値が下がることに繋がると考えているのだ。よってそれが偽物と判断されたことに不具合があるからこそ文句をつけるのだろう。

偽物かどうかは文句をつけたところでその真実は変わらないのは言うまでもない。

そしてそのように考えている人がAmazonでわけのわからない、頭がおかしいのではないかと思える発言をしている。

はっきりいって、日本人に対して失礼な一冊。平安時代から親しまれてきた般若心経を全否定している。

鼻につくのが、「自分の見解が絶対正しい」という態度。これはキリスト教イスラム教の原理主義者たちと同じ態度である。

釈迦の言葉が絶対の真理だと、いったい誰が決めたのか。

http://www.amazon.co.jp/review/RACFU7X6UFGSU/ref=cm_cr_pr_cmt?ie=UTF8&ASIN=4796660321 より引用

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「日本人に対して失礼な一冊」、「平安時代から親しまれてきた般若心経を全否定している」とはなんなのか。事実を述べることが悪いと思っているのだろうか。コレもいかにも日本人的な、集団意識や、恥の文化と言えるものであろう。

そもそもに「日本人に対して失礼」というのは理解すら出来ない。「日本人」とは「日本人全員」の事を指しているのかはわからないが、文脈からはそうであろう。だがそうすると、なぜこの人は日本人全員が仏教を信仰しており、さらにはそのなかで般若心経をお題目としていると考えているのだろうか。

この人自身が、それぞれの宗派、「法華経」や「華厳経」など他のお題目を信じることを全否定しているのではないか。キリスト教徒が仏教をどうでもいいように、無宗教者がそのどちらもどうでもいいように、他の宗派の人からすれば般若心経など否定されようがどうでもいいという考えを持っている人もいる。にも関わらず、その人たちを無視して「国民総般若心経信仰者」と考えること自体がこの「信仰の自由」が保証されている日本と言う国に暮らす民に失礼な考え方ではないか。

平安時代から親しまれていようが、昨日から親しまれ始めたのであろうが事実は変わらない。なぜ歴史が長いものは正しいと、歴史の長いものが評価されるべきかと考えているのか。であれば仏教よりも神道のほうが歴史が長い。仏教を捨て神道を信仰すべきだろう。

そしてそもそもに著者は「否定」をしていない。完全に感情に支配されバイアスがかかった状態で判断してしまったのだろう。

先の記事でも引用しているが、著者は偽物であったとしても文化としてそれを嗜めば良いと、このコメントのことをそのまま書いている。現在般若心経を生活の一部にしている人のための余地を残してくれているのになぜそれを自分で攻撃してしまうのか。

そして根本的に頭がおかしいと思うのは「釈迦の言葉が絶対の真理だと、いったい誰が決めたのか。」ということだ。この人は仏教を一体何だと思っているのか。

仏教徒は「仏」である釈迦の考えを広めたものだ。釈迦の考えを信じるからこそそれを崇拝、信仰するのだ。釈迦の考えを正しいとしないのであれば、なぜ仏教を信仰しているのか。先にも書いたが「仏」の「教え」であるからこそ「仏教」なのだ。

仏の考えを真理としないのであれば、それはそもそも仏教ではないし、それの信仰は仏教徒でもない。単なるの自分崇拝だろう。このような当然のことに文句をつけるのは、自分の考えが全て正しいと思っている自分真理の絶対信仰だ。

そうするのであれば自分が正しいと思う考えを新しい宗教として作ればよかろう。仏教というからには釈迦が真理なのだ。

先からの記事にも書いているが、日本の仏教は中国を経由したもので、その時点で仏教は変質してしまっている。中国に入った仏教は道教と結びつき、魂魄思想が入り込んだ状態で日本に伝来した。魂魄思想、魂と体という心身二元論的な考えに変質したのだ。

だからこそ葬式の無いいわゆる奈良仏教と、葬式のあるいわゆる鎌倉仏教とで今の日本でも違う考えの仏教が存在するのだ。そしてそもそもに中国から伝来した仏教であるので、そもそもが本来の仏教とはかけ離れてしまっている。これが日本で広く信仰されている大乗仏教と、本来的な仏教としての上座仏教との違いでもある。

これからも日本にある仏教は本来の形ではないことは当然として理解することができるはずだが、それが出来ない人というのはどうも自分よがり、自分崇拝が強すぎると感じる。

今ある仏教宗派の浄土宗、浄土真宗にしても法然親鸞の解釈の違いによって宗派わかれるという宗祖の解釈の違いなのだ。その解釈の違いというのも、どう解釈すれば「釈迦の教え、考えに近づけるか」と言う理由からになる。

どの宗派にしてもそれは変わらず、「釈迦の悟りに近づく」ということを本来の目的としており、宗派により宗祖は違えど釈迦の真理を基本にしていることに違いはない。もし釈迦よりも自分の悟りのほうが素晴らしいとしたのであれば、それは仏教の一宗派に落ち着くのではなく新たな宗教の開祖となっていただろう。

こうなのであるから、釈迦の本来の考えがわかればそれに従うというのが本来だ。だが歴史からそうならず、現在も宗派がわかれているのは仕方がない。中国から変質した仏教が渡ってきたように、日本に渡った時点で、広まる時点でドンドンと変質し、同じ宗派でも歴史が変質させていく。多くの人が都合のいいように解釈が変更されたもののみが生き残ってきたのだ。般若心経が生き残ってきたのもその手軽さからであろう。

現在は多くの宗派が妻帯を認めているが、最近までは多くの宗派が妻帯を認めていなかった。宗教とはこのように時代に合わせて変化されていくのだ。歴史と共に開祖の考えがドンドンと薄れていくのは仕方がないことだ。会社にしても2代変われば創業者の意志など全くなくなるのと同じことだ。

このようにどの宗派にしても「釈迦の考えが真理」なのだ。だからこそ仏教足りえる。ご本尊は違えど、そのベースは釈迦の教えなのだ。

「釈迦の言葉が絶対の真理だと、いったい誰が決めたのか。」と考えている時点で仏教徒ではないと断言できる。そもそもの根源的なことすらも理解できていないのだ。

長々書いてきたが、「釈迦の真理に近づこう」としている宗教に対してそれを真っ向否定するのであれば新しい宗教を立ち上げるしか無い。いや、そもそもそう思っている時点ではそれは仏教を信仰しているわけではないのだから新しい宗教を信仰しているのと同じことだ。「新しい宗派」ではなく「新しい宗教」だ。仏の教えを関係ないとするのであるから仏教の宗派となることは出来ない。

だがそのようにどの宗派も仏教から独立しない、していないのは結局の所現在も根本的な仏の教えが大切にされているからであろう。

何度も言うが仏教徒はそもそもに、仏の教えを信じ実行することである。

その真理を受け入れようとしないのは信者でもなんでも無く、単なるクレーマーでしかない。

そもそも般若心経を信仰している方はなぜその原典とされている「大般若波羅蜜多経」を読もうとしないのか。ダイジェストを見てそれを知ったつもりになっているのだろうか。

原典を読んだ上で般若心経はキチンとあらすじとされていると主張するのであればまだしも、それを読まず、そのあらすじしか知らないのに「それが正しい」と主張すること自体がおかしな考えだろう。

そもそもそのあらすじとして正しくないからこそ「偽経」と考えられており、正しくないからこそ多種多様の解説本が本書で指摘されていた箇所の解釈法を解説しているのだ。なぜこれを受け入れようとしないのだろうか。

般若心経がここまで広範囲に広まっているのはそれが素晴らしいのではなく、単に「手軽」であるからではないだろうか。大般若波羅蜜多経を300文字のあらすじ要約したとなれば、それを読めば、ちょっと理解すればそれらを知ったつもりに慣れるのだろう。

そしてそれがおまじないで、それを口にすれば悟りに達し救われるともなればそれに手軽に飛びつける。それを否定されても「平安時代からの歴史がある」と言えばよいのだろう。

ぜひ、自分が信じているもの、信仰しているもの、身近なものについてもう少しだけでも考えてほしい。