ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

なぜ教科書にマーカーを引くのか

先に「ノート」を書いたが、ノートに書くのと合わせて教科書に線を引く人間をアホだと思っている。

この本に線を引くというのは悲しいかな齋藤孝も進めている方法になる。齋藤孝の書籍は好きだが、今までにも書いてきたようにどうにもこの考えだけには賛同できない。その理由はこの記事からもわかってもらえるだろう。

先の記事とあわせて「ノートライター」も書いたが、そこにはあえて書かなかったが、ノートを取る人間の多くは教科書に蛍光マーカで線を引く。アホですか。アホ丸出しですか。

これは教科書が「もったいない」という意味で批判的なのではなく、教科書に線を引くというのはノートに書くよりも取り返しのつかないアホな行為だと考えているからだ。

 

 

暗記シリーズ 緑マーカー・赤シート セット

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まず考えて欲しい。なぜ教科書に線を引くのか。

私は線を引かないために想像になるが、およそは「重要かと思う場所」、「覚える場所」を目立たせるために線を引くのだろう。

だがここでまた考えて欲しい。その重要かと思う場所、覚える場所は未来永劫同じ場所になるのか。今その線を引いた場所は半年後もそうなのであろうか。

いや、そんな訳はない。まず少なくとも「覚える場所」としては確実に役に立たないだろう。今覚えなければいけないために線を引いたとしたら、一週間後や一ヶ月後にそこを覚えられていないのはまずい。覚えられていないのであれば、そのページ以後も覚える場所は増え続けているであろう。

覚える為に線を引くというのであれば、それは覚えたら不要になるということだ。覚えたのにその線は残り続け、以後教科書を見るたびにそれが目に飛び込んでくる。そしてそれを読んでから、それがすでに覚えた箇所なのか、これから覚えなければならない箇所なのか判断する。

なぜ今のそんなくだらない目的のために未来に苦労、不便をしなければならないのか。覚える箇所なら付箋でも貼っておけばよいだろう。そうすればわざわざページをめくりながら線が引かれている場所を確認していかなくて済むし、付箋の数で、今自分がどのような危機に陥っているのかも一目でわかる。

マーカーなんて引くよりも、付箋のほうが明らかに便利な方法だ。

ここまでで「覚えるため」にマーカーを引くことがどれだけ意味がなく、不便なことかがわかったと思う。そしてそれと同じように「重要な場所」に線を引くことに意味がない。

重要な場所も結局、その時々で場所が変わる。重要度も変わる。そしてなにより、線が引かれているとそこが重要だと勘違いしてしまうのが危ない。

今は重要でも、明日には重要ではないかもしれない。だがマーカーは残り続ける。そしてそれを見るたびに重要だと勘違いしてしまうかもしれない。明後日は「ここは重要ではなくなった」と覚えているが、半年後にはそれを忘れ、重要だと勘違いするかもしれない。

とにかくマーカーを引くという事は、今の自分よがりな考え方で、将来の自分に迷惑をかけることになる。今の自分のために、未来の自分の足を引っ張る行為だ。

中古で本を買うとよく線が引かれていることがある。中古を選んでいる以上にそれは覚悟しておかなければならないことだが、それを見るたびに「お前の感情押し付けんなよ」と思ってしまう。線を気にしない様にしても、線が引かれている場所がどうしても気になり目が行ってしまう。線が引かれている場所を読むと、いいことを言っているのかと先入観を持ってしまう。

ノートもこれと同じようになってしまうがためにマーカーを引くべきではないだろう。付箋が最適だ。貼ってはがせて再利用できる。

図書館で勉強している若者を見ると、筆箱の中には多色のマーカとボールペンでいっぱいだ。20本近く入れている人も珍しくないだろう。私の筆箱にはペンが4本入っているだけだ。それも万年筆のインクがなくなるためにそれだけの数を入れているに過ぎない。万年筆が3本と鉛筆が一本だ。それで十分だ。付箋はこれでもかというくらいに持ち歩いているが、消さないので消しゴムも必要ない。

もう少し未来のことを考えて行動しよう。今の自分が良ければ全て良いのか。