ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

日本人と海外人

先日に「「詳しい」ってのはだいたい知ったかぶりとか思い込みじゃないかな」を書くと、予想通りご批判を頂いた。

簡単に言えば「人間工学に基づいて作られていれば海外製でも使いやすい」、「形状的に同じものが舶来品と国産で違うわけがない」、「ペンなんて日本製でも海外製でも同じ」というもの。

もうなんて言うか、なぜアホは居るのだろうとしか思えない。

 

 

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そもそもこの人は「人間工学」が何かわかっているのだろうか。確かに年齢差や個人差等の個別差も吸収するように設計するのも人間工学の一つの分野になるが、例えば筆記具ではそれは叶わない。

例えば未就学児向けの筆記具は例外なく太いだろう。なぜか。まだ手が小さく、そもそもその肢体は発達しきっていない。だからこそペンを握る形で持つが故、細い形状では持ちにくく、おのぞと太く持ちやすい形状がその年齢向けの筆記具の形状に成る。

だが成長しペンを手で握らなくなると、指先で挟んで持つように成るために太さが邪魔になりペンは細くなる。これが年齢差による人間工学の差だ。

このように幼児と大人の差を見てもらえばはっきりするが、体格差というのは人間工学にもはっきりと差を与える。幼児と大人の差ほど大きなものではないが、国別でも大きく違う。

例えばアメリカ人と日本人の体格の差は説明するまでもなく理解できているだろう。アメリカ人のほうが背がでかい。体重も重い。そうなると自ずと手の大きさも異なる。であれば各国の文房具がその国の平均的な体格からサイズを作っているとすれば、アメリカ製は日本製よりも大きなものと成る。

であれば、同じように「人間工学に基づいて作った」と宣伝されるペンにしてもサイズが異なり各国の人間の使いやすさに影響を与える。

そしてなにより、日本人は箸を使う文化であったりするため、他国に比べると平均的に手先が器用だとも言われている。だからこそ細めのペンでも自在にあやつることができるが、それが出来ない海外製のペンは自ずと太めのペンにもなる。

体格差としても、文化の差としてもペンひとつとってもこのように国別によって全く異なるのだ。

そして他にも、人間工学以前に、国別の文房具を見てもらえばわかるが大きさが異なる。日本製の文房具は先の手先の器用さにも関係するが小さいものが多い。それは小さいペンケースに多量に入れて持ち置けるように国別の事情に合わせて作られているからだ。

交通事情としても、電車通勤が多い日本人は荷物を小さくしなければならないが、車通勤が基本のアメリカは車に積み込める大きさならどうでも良い。これはノートパソコンのサイズからしてもわかるだろう。

他にもアメリカやドイツの文房具をみると大きい物が多い。体格の大きな人間が座り、土地単価の安い国の机は大きいので、デスク上に置いておくものでも大きい物が作れるのだ。だが日本のように土地単価が非常に高い国では必要最低限の大きさのものが求められる。

机の大きさにしても、先の体格差も加味して作られているので、日本製の机よりもアメリカ製の机のほうが高さが高い。まれに海外製の机を使っているのを見るが、明らかにサイズがあっていないのはすぐにわかるだろう。

このように表面的に、簡単に考えただけで国別の事情というのは異なるのだ。最も単純には、日本で左ハンドルの車に乗っている人の不便さを考えればわかるだろう。


日本人が道具として利用している「引く」動作と、欧米人が道具として利用している「押す」動作とで筋肉の付き方が異なり、それによって椅子の形状すらも国別に異なる。

このように「人間」というくくりは「犬」と言うくくりと同じように単なる種族のくくりでしか無い。

だからこそ「手に馴染む」というのは、人がそれを使い続け、その人の使い方のくせに合わせて摩耗するなど形状が変化し、その人の使い方にマッチするからこそ言えることなのだ。

 

なぜこんな単純なことも考えることが出来ないのだろうか。