ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

敬語は必要か

前に「敬語は必要か不必要かどう思うか」と言う質問をされたことがある。なんかのアンケートで同様の質問がされており、10代の若者の中には結構な割合で「不必要」だと答えている人間がいるということだった(このアンケートの詳細を知っている方がいれば教えていただけると正しく引用します)。

その「不必要」だと答えた人間の「不必要だと思う理由」としては以下のような回答がピックアップされていた。

  • 敬語を使うと相手と壁が出来てしまう
  • 社会は実力主義。敬語なんか必要ない。
  • 敬語なんかではなく態度で相手への尊敬を表せばいい。

「自分の言っていることが理解できていないから敬語を不必要だと感じるんだろうな。」と思った次第。

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これらの「不必要だとする理由」は全て、「敬語は必要だ」と言っているのと同じだ。別に若い人間だから敬語が不必要だと感じるのではなく、若い人間だからこの矛盾に気づかないというわけではないと思う。先にも書いた通り「結構な割合で不必要だと答えた人間がいた」と書いているように、「必要」だと答えている人間も多数いる。だが「不必要」だと答えた人間も少なからずおり、その不必要だと答えた人間の理由の中から適当なものがピックアップされているだけかと思う。

これは10代ではなくて20代でもいるだろうし、もしかすると30代でも同じように考えている方も居るかもしれない。「10代のアンケート」として誤解を招かせようとしているのかもしれないが、これは「バカはバカであるという事」で書いた「ゆとり世代」と同じように現在の若者を敵にしようとしているだけだろう。


まず一つづつ考えて欲しい。

敬語を使うと相手と壁が出来てしまう

こう答えた、こう考えている人間に考えて欲しいのは、あなたは言葉のかけられ方、会話のされ方によって態度を変えていないかということ。敬語で話すことによって相手と壁が出来てしまうということは、逆に考えればフランクに話しかければよりフレンドリーに感じられるということだ。

ここで考えて欲しい。

「すみません。道に迷っています。○○に行きたいのですが、どう行けばいいのでしょうか?」と話しかけられた場合と、「おいオバハン、○○ってどういったらええの。教えろ。」と話しかけられた場合、どちらが気分がいいだろうか。これはもちろん少々極端であるが、後者より前者が気分がいいことは明らかだろう。

基本的に会話というのはキャッチボールに例えられるように受け答えが必要だ。そしてその会話は受け取ったボールに合わせて投げ返す。敬語で話しかけられれば、同じ程度の敬語とまではいかないかもしれないが同じように丁寧に答える。だが、後者の場合はキャッチボールではなく、言葉のドッヂボールになる可能性がある。罵声の浴びせ合いだ。口喧嘩だ。

後者のように話しかけられると、「はぁ?なに?」のように、売り言葉に買い言葉、喧嘩に発展していく可能性もある。だからこそ、自分が相手に物を尋ねる、教えを乞うときはそれを態度で示すように敬語で話しかける必要がある。敬語を使うことによって相手と壁を作らずに会話しようとしているのだ。

社会は実力主義。話し方なんてどうでもいい。

社会ではまず敬語が使えるかどうかの実力から始まる。上に書いているように、社会に出たら自分は教えてもらう立場から始まる。その教えてもらう立場にいる場合は相手に物を尋ね、教えを乞う必要がある。そうなるのであれば、相手の機嫌を少しでも害さないように、相手が答えやすいように敬語を使うことが必要になる。

教えてもらう立場の人間が「ここなんでこうなるの。教えて。」と質問して教えてもらえるだろうか。

たとえそれが教える立場になっても同じだ。入社10年で部下に教える立場になったとしても、まだまだ上司がいる。社長の座についたとしても親会社や取引先の上の立場の人間がいる。親会社のトップだとしても株主がいる、消費者がいる。

常に自分より立場が上の人間がいるのだ。その上の人間に怒りを交わないように実力として敬語を扱う力が必要になるのだ。

敬語なんかではなく態度で相手への尊敬を表せばいい。

まさしく、その態度を言葉にしたものが敬語だ。教えてもらっている先輩に感謝の為にお茶を入れるとする。その際に「ご指導ありがとうございます。冷たいものを入れてきたので良かっただ飲んで下さい」と言うのと、「お茶いれてきたから飲んで」というのでは、行動としての態度で感謝を表せたとしても、その行動を伝える言動で態度が表せていない。


敬語とは、相手と壁を作らず、態度を言葉で表し、相手を敬うことの表現を言葉として表すことのできる実力であるのだ。


たしかに、逆に敬語を使いすぎると話しづらいのは確かだ。言葉を選びすぎると伝えたいことが伝えられなくなる。回りくどくなりすぎて意味がわからなくなる。だがそれは行き過ぎた敬語であり、普段使いのフランクな敬語は必要だ。私も敬語を使うこともあるが、あまり「行き過ぎた敬語」は使わないようにしている。むしろ多くの目上の人たちにも敬語を使わないと思われがちかもしれない。

私は年上の知り合いが多いのだが、それらの知り合いにたいして「しばくぞ」や「うるさい」、「ジジイ」などのような言葉を使うことが多々ある。だがしかし、これがそれまでに築いた相手との関係を表す方法なのだ。先に書いたようにいきなりこのような話し方から始めたのではない。最初はもちろん敬語を使っていた。

だが関係を深めるに連れてどんどんと相手との距離が短くなり、そのなかでそれらの言葉が許されるようになったのだ。こんな会話をしつつも必要がある場所では敬語を使う。

敬語を使うということは、このように場面場面に応じて話し方を変える能力を身につける過程でもある。私が60歳を超えた経営者相手に「うっさいジジイ」と暴言を履いていることに周りの人間はヒヤヒヤしているようだが、そのような関係を築いていくために言葉を選ぶということが必要なのだ。もちろん会議中にその言葉が許されるわけがない。色盲の私が服を選んでいる際にグレーと黒の違いがわからず、じっくり色の違いを確認している際に「どれ見てもわからんやろ。はよ選べ。」と言われたからこそ「うっさいジジイ」という返事が許されるのだ。


敬語を話すということは、このように相手や状況、タイミングに応じて言葉を選ぶ中の選択肢の一つにほかならない。

即答するバカ (新潮新書)

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