ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

芸人の思いあがり

先に「素人」と言う記事を書いた。そこでは芸人の思いあがりについて書いたが、他にも勘違いしていると思える点が多々あるのでその一つを記事にしておく。

芸人は本当にアホなのか、先の「素人」記事のように思い上がっているのか、「先輩が絶対的に偉い」のように世間一般と乖離が酷くあるのかはわからないが、芸人の言動を聞いていると違和感を感じることが多々ある。この記事の内容は本当に芸人がアホなのかと思える点だ。

折口信夫芸能論集 (講談社文芸文庫)

折口信夫芸能論集 (講談社文芸文庫)


これも何かの番組だが、芸人が「評論家を評価する」とかそういった番組であった。少ししか見ていないために内容は全くわからなかったが、「ラーメン評論家が普段言っているラーメン店は美味しいはずだ」のように、その評論家が「評論」の為に食べているラーメンではなく、私費を投じ、自ら進んで食べに行くラーメン店はコストパフォーマンスが非常に高く、おいしいはずだ。という根拠のもとに、それぞれの評論家のおすすめを聞くというものであったかと思う。

これはもっともな話だ。映画評論家は週に10本以上と、世間で公開されている映画の大半を視聴し、さらに過去の映画もドンドンと見ている。その中から映画の変化や監督の考えの変化、何度見ても飽きない映画など、映画について聞けば答えてくれるような存在だ。その評論家の勧める映画は面白いものが含まれる可能性が多くある。端的に面白いというものではなく、一度見るともう一度見たくなるような映画や、10年後に思い出し感動できるような映画だ。


この企画は正当な内容で、私も興味があったためしばらくの間見たのだが、途中から芸人がおかしな話をし始めた。

「芸能評論家が偉そうに笑いや芸人について文句を書いたりする。そんな偉そうにする人間なのだからきっと面白いはずだ。芸能評論家を連れてきて面白い話をさせよう」

そして、この話に番組出演者は全員同意していた。


芸人全員がこの考えに同意するのかはわからない。だがその番組に出演していた芸人は全員同意していたかと思う。

その芸人がバカなのか、頭がおかしいのか、やはりこれも世間との乖離なのかはわからない。この理論が間違っていることに気づかないことがヤバイ。


例えばラーメン店の店主がラーメン評論家に「ラーメンを作ってみろ」と文句を言うのだろうか。映画監督が映画評論家に「映画を作ってみろ」と言うのだろうか。

そもそもその番組の企画自体を理解できていないのではないだろうか。ラーメン評論家が「普段食べているラーメンは美味しいはずだ」というのを特集していたのであって、「ラーメン評論家が作るラーメンは美味しいはずだ」ではない。

評論家はその分野について広く知識を持ち、それを評論するのが仕事であり、その分野の業務に卓越した才能を持っているのではない。芸能評論家に「これから売れる芸人を上げてみろ」や「売れていないけど面白い芸人を言ってみろ」というのであれば多少の関連もある。だがいきなりに論理を飛び越して「笑わせてみろ」とはどのような発想からそうなったのか。


これは先からの記事のように芸人と言う職業を崇高な特別な職業だと勘違いしているからこそ、それを評論する人間が「面白いことを言えないのはおかしい」と上から目線で指摘しているのではないだろうか。

芸人は単なる職業だ。それも現在となっては特に難しいものでもなく、一般的な職業に他ならない。


先輩が絶対的に偉く、素人を下に見る。そして自分を評価する人間を陥れようとするのはそのへんのチンピラと同じような考え方だ。

先の「素人」と言う発言についてもダウンタウンより若い芸人が口にしているのをよく耳にする。それよりも上の世代がそのような発言をしているのを聞いたことがない。ダウンタウンが使っている言葉を「それを使ってもいいんだ」と免罪符のように勘違いし、それを使える特別な職業だと勘違いしているのではないだろうか。


そういった発言を聞いてしまうと、いくら面白いと思う芸人であっても「思い上がってるんだな」と悲しい気持ちになってしまう。

中上健次エッセイ撰集 文学・芸能篇

中上健次エッセイ撰集 文学・芸能篇

音で観る歌舞伎-舞台裏からのぞいた伝統芸能 (シリーズアーツマネジメント)

音で観る歌舞伎-舞台裏からのぞいた伝統芸能 (シリーズアーツマネジメント)

明治国家の芸能政策と地域社会―近代芸能興行史の裾野から

明治国家の芸能政策と地域社会―近代芸能興行史の裾野から