ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

対岸の火事

前の記事に「日本人の平和ボケ」を書いた。その中に「対岸の火事」や「よそはよそうちはうち」と言う考えを書いたが、これは何も予想で書いたわけではない。

私はこれを実感し、非常に腹立たしかったことがあるのだ。

人はなぜ学ばなければならないのか

人はなぜ学ばなければならないのか


プラスチック等の石油化合物は基本的に自然分解されないため、それを廃プラスチックとして処理する必要がある。その処理を行う施設が廃プラスチック処理工場と言う名前であったりいろいろとあるのだが、要するにはプラスチックを廃棄するための工場になる。


そして、その工場が私が住んでいる市か、隣の市に作るかで審議されていたことがあった。

想像通り、両方の市の住民は「こっちの市には作るな」と言う言い分で争っていた。理由は単純で、どうしても有毒ガスが工場から排出されてしまうため、それからの健康被害や、土地の価格低下等の財産的被害が理由になる。


だが考えてほしい。「こっちの市には作るな」とはいかに身勝手な考え方か。これぞまさに対岸の火事だ。隣の市に作るのは私には関係ないことだからどうでもいいが、私の住んでいる地域には作ったらダメ。と言っているのに他ならない。それを証拠に、その2つの地域の住民はデモなどを必死に行い自分の地域に作らせない行動を行っていたが、その2つの地域ではない隣接する地域はなんの運動もしていなかった。

それらの人からするとどっちに作られても自分の地域ではないから関係ないのだ。まさに「自分に危害が及ばなければどうでもいい」という結果からになる。


今現在新しく原発をつくろうとすると全土からアホどもが騒ぎ立てると思うが、今までに原発が作られたとも反対行動を行っていたのは主に建設地域の住民だけである。九州に作る際に北海道の住民が反対運動を行ったか、今現在も国外につくろうとしているものに対して反対運動をしているか。

結局は「自分に害が及ばなければどうでもいい」のである。これが対岸の火事というものだ。

平和を望んでいるなんて幻想」でも書いたが、本当に戦争を望んでいないのであれば、今現在に世界中で起きている紛争に対して関心を示し、それらに対して自分で行動を行っているはずだ。「平和を願っている」という人たちの一体何人がこの活動を今現在も行っているのだろうか。


話を廃プラスチックに戻すが、その反対運動にも驚愕するような事柄をいくつも目撃した。

まずその工場を作らねばならない理由としては「お前らがプラスチックを使うから」と言うことになる。自然分解されないために工場を作って廃棄処理をしなければならないのだ。お前らが便利にプラスチックを使うがゆえに、それを処理する施設が必要になっている。

ならまず、反対運動をするのであれば「プラスチックを使わない」ことを始めなければならないのではないだろうか。「少なくする」ではない。「使わない」だ。いくら少なくしようが使っていることに代わりはない。使っている以上工場は少なかれ必要になるのだ。原発も同じだ。原発に反対している奴は電気を使うな。「節電」と言うわけのわからない言葉ではない。「使うな」だ。

だが反対運動をしている人たちの中にそのような人は見つからなかった。むしろ、プラスチックボードに文字を掲げて反対デモをしているのだ。こんな頭の悪いことはない。そのプラスチックを捨てるために工場を作るのに、プラスチックをより多く消費している。その消費は工場の稼働を早めることしかしない。工場の建設を増やす結果しか産まない。

こんなこともわからない馬鹿だからこそ、そんな奴の言うことは聞かれない。「プラスチック消費ゼロの街」に工場を作ることは望まれないかもしれないが、ガンガン使っている街に作ることになんの躊躇があるだろうか。


先の話とも合わさるが、平和を望むのであれば自分たちの街に工場が作られることを望め。そうすれば他の地域の人達は幸せなのだ。そう望まないことが争いなのだ。


人はなぜ学ばなければならないのか

人はなぜ学ばなければならないのか