ゴミ箱の中のメモ帳

まだ見ぬ息子たちへ綴る手記

こうして未来は形成される―過去再現と未来創造の法則 喰代 栄一(著)

これは酷い。私は「これは酷い」というのが口癖になっているような気もするが、何度でも言う。これは酷い。

以前に「ポジティブ思考では、なぜ成功できないのか?」を読んだ時にこう書いた。

前書のようなものを扱った書籍を出すゆえにそうなったのか、それとも、そもそもにそういう考えであったから前書を出したのかが気になるところだ。後者だと少々残念に思える。

本書を読んでこれが決定づけられた。

著者は完全にとんでも科学を信仰している。


確かに前著の「なぜそれは起こるのか―過去に共鳴する現在」を読んだ際は非常に面白かった。昨今のインターネッツでもシェルドレイクの仮説(形成的因果作用の仮説、形態形成場仮説)は中々調べることが出来ないため、前著の内容はシェルドレイク自身の「生命のニューサイエンス」以外にそれを知ることが出来る良書であったと思っていた。

だが本書は違う。本書の冒頭にも書かれているので念の為に引用しておく。

P5.
前著『なぜそれは起こるのか』ではシェルドレイクの仮説をなるべく客観的に紹介することに努めたが、本書ではその仮説を私流に解釈・発展させ、主観的な見解も少なからず述べた。その内容を多少奇異に感じる方がおられるかも知れない。しかし私は思うのである。科学上の新しい発見や仮説を紹介することのみならず、それが私達の人生や生き方にどのように応用できるかを考えることもサイエンスライターの仕事ではないかと……。

ここでも著者が認めているように、本書の内容はシェルドレイクの仮説や、そもそものシェルドレイク自身が考えているものではないと言える。確かにいくつかの章ではシェルドレイクの実験の内容を紹介しているが、それすらも著者の主観で解説されているところが多く、本来のシェルドレイクの考えとは全く異なるのではないかと思える部分も多々ある。

よって、シェルドレイクの仮説に興味のある方は本書を読む必要はない。いや、読むべきではない。完全に似非科学疑似科学、とんでも科学な内容となっている。最近笑えることがないと思っている方に適切な書籍だろう。正直あまりのこじつけ感に笑ってしまった。

私のように本書を読んで「笑える」方であれば問題ないが、科学的、数学的知識がない方は本書を読んでこの内容を真に受けてしまうのはまずい。そしてそういう人に限って周りに言いふらす。そういった意味で本書は非常にまずい書籍になる。



例えば室町幕府の足利氏と江戸幕府の徳川氏が共に、「三代目で安定期を築き、八代目で目立った業績を上げ、十五代でついえた」というのが形態形成場におけるものらしい。あまりにもこじつけがひどすぎる。三代目の安定についても八代目の目立った業績というのも完全に著者目線の主観であるし、十五代でついえたというのもこの二つでしか無い。そもそもに形態形成場というのは「その場」を支配するものであり、歴代的に代々に支配し、ある代においてそれが発生するというような時限式タイマーのような万能なものではない。

この考えを本気で言っているのであれば、もし著者が「アポトーシス」を知ればその仕組み自体も形態形成場、右脳/左脳の役割分担も形態形成場、日本で右ハンドルが生産されているのも形態形成場、私が今この文章も書いているのも形態形成場と、何でもかんでもこじつけることが出来るだろう。

また本書では他にも、ビールメーカの売上についてや、O-157ウイルスについて、校内暴力について等など、様々な現象を全て「形態形成場」と言う万能な理論を用いて解説している。これら全て企業理念や行動科学、報道やそれに対する同調、確率論などで説明できるものであるのに、著者が見るには全て形態形成場によるもののようだ。



こういったとんでも科学を進行する方の特徴は「絶対的にそれを信じている」ということだろうか。それが「絶対」であるのだから、それが否定されることはない。どんな科学的否定条件があったとしても、その科学的否定の条件や前提が違うということでそれを受け入れることはない。

そもそもにそれが「絶対」であるので、世の中の現象を全てそれを前提に見てしまう。例えば本書の著者からすれば、どのような現象も「形態形成場」によって発生した事象であるということが「前提」なのだ。だからこそ先に書いた全ての現象は他の科学的、数学的、脳機能学的に判断できるとしても、それは間違いで、形態形成場こそが正義になるのだ。

コインを二枚投げ、それが二枚とも同じ面を向いたとする。本書ではそれを「形態形成場によるもの」と紹介しているようなものだ。



こういったことを「色眼鏡で見る」というのだろう。端から見るとその人は色眼鏡をかけていることがわかるが、本人からするとその色で見えていることが現実なのだ。自分がメガネをかけていることに気づいていない。そして、かけていないつもりなのだから「色眼鏡をかけてるよ」と注意されてもそれを信じることはなく、自分のメガネを外そうとしない。

非常にまずいだろう。



先の記事にもいくつかのコメントを頂いたが、その中にもこれと同じように感じる方が居た。是非ともメガネを外し、メガネのない状態で判断して欲しい。その判断の結果はどの科学を信じるかは自由である。



カール・ポパー反証可能性を例に何度も出すが、「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」。

これを肝に銘じて思考しなければならない。